シャルル10世 (フランス王)

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シャルル10世フランス語: Charles X1757年10月9日 - 1836年11月6日)は、復古王政ブルボン朝最後のフランス国王(在位: 1824年9月16日 - 1830年8月2日)である。ナバラ国王としてはカルロス5世Karlos V)。即位以前にはアルトワ伯爵comtes d'Artois, コント・ダルトワ)の称号で呼ばれる。

生涯[編集]

フランスの王太子ルイ・フェルディナンと妻マリー=ジョゼフ・ド・サクスの第4子。兄にルイ16世ルイ18世がいる。

1789年バスティーユ襲撃からフランス革命が起きると、長男のルイ・アントワーヌを連れてイギリスなど各地に亡命ドイツではコプレンツなどで同じく亡命した亡命貴族らのリーダー的存在となる。イタリアスコットランドなどにも亡命して、各地で亡命貴族と交流を深めた。

ナポレオン・ボナパルトによるフランス統治が始まると、シャルルは反ナポレオン運動を展開。スペインでの革命でも王党派を支援したりしている。ナポレオンがロシア遠征に失敗して欧州各国の反撃を受けて没落し、ブルボン朝が復活すると兄のルイ18世が国王に復位し、一時的なナポレオンの100日天下を除いてブルボン朝が確立すると、兄の下で有力な王族として参画するようになり、国王代理官として過激な王党派を率いる有力者となった。

1824年にルイ18世が死去すると、兄に男子が無かったことから68歳の高齢で国王に即位した。ルイ18世は立憲君主制にある程度の理解を示していたが、シャルル10世は絶対王政への回帰を目指しており、理想をルイ14世の時代としていた。しかしそれは既に立憲君主制や自由に目覚めていた多くの国民の憤激を買うことになり、シャルル10世は議会を解散して絶対王政を志向しようとする。この反動政策は多くの国民が立ち上がることになり、1830年アルジェリア出兵を機に七月革命が起こり、シャルル10世は直ちに軍を出動させて鎮圧に努めさせるが、逆に国民により蹴散らされてフランスは無政府状態となり、シャルル10世は王太子のルイ・アントワーヌや一族と共にイギリスに亡命。これによりフランスのブルボン朝は完全に滅亡し、オルレアン家からルイ=フィリップ1世が新たな国王として擁立された(七月王政)。

1836年に80歳で死去。死後、孫のアンリ・ダルトワによりブルボン朝復古運動なども行われたが、実現することなく終焉している。

家族[編集]

1773年11月16日、サルデーニャ国王ヴィットーリオ・アメデーオ3世の娘マリー・テレーズと結婚し、2男2女を儲けた。

関連項目[編集]