程度
程度(ていど)とは、物事の度合いのことを意味する言葉。
漢字とひらがなのどっちで表記すべきか問題[編集]
ある程度重要である。
...という風に「程度」という熟語は、他の熟語と連続することが多い。「漢字が連続していると読みづらい」と感じる人も世の中にはおり、この種の文章をどう表記するかは大きく4パターンに分かれる。
- パターン1:ある程度重要である。 (気にせず連続して書く)
- パターン2:あるていど重要である。 (ひらがなに開いて書く)
- パターン3:ある程度 重要である。 (スペースを入れる)
- パターン4:ある程度、重要である。 (読点を入れる)
「程度」は和語ではなく漢語であるため、原則だけでいえば漢字で書くのが妥当である。
パターン1はそのまんまの書き方である。日本語として何も間違えてはいないが「人によっては読みづらいかもしれない」という配慮が全く感じられない書き方である。「文法的正しさよりも配慮が重要なんだよ」派の人たちを、少しだけイラっとさせる書き方である。
パターン1の「程度は漢字で書くに決まってるじゃん」原理主義派の人が、パターン2の文章を見たときには「こいつ "程度" も漢字で書けないのかよ(あるいは、変換し忘れているのかよ) プゲラ」という不毛な誤解が往々にして発生する。意図的に「ていど」を平仮名で書く人が世の中にいることを、パターン1原理主義者は想像だにできないのである。とはいえ「漢語の "程度" をひらがなで書くのは逆に不自然なんだよ」と言われるとぐうの音も出ないのだが。
パターン3は、文法的正しさと見やすさを折衷した書き方である。しかし、細かい心遣いが分からない朴念仁人間からは「なんか余計なスペース入っているけど、これタイプミスですか? プゲラ」と、あらぬ嘲笑を受ける虞がある。
パターン4は最も無難な落とし所である。しかし文章によっては、この近くに別の読点が打たれている場合もあり「読点が多い文章はそれはそれで稚拙に感じられる」という別の問題が発生することがある。また、「読点は、視覚的な認識しやすさではなく、意味が区切れるタイミングで打つべきなんだよ」派からは、不評を買ってしまうこともあるため、万能な解決策ではない。
結論?[編集]
- こんなことを一々考えさせる日本語はクソである。それもこれも、漢字・ひらがな・カタカナという複数の文字体系を組み合わせて使う日本語の特殊さのせいである。
- 英語の書き手に比べて、日本語の書き手は余計なところで不毛な思考を費やされる。こんなんではIT分野で英語圏に負けるのも当たり前なのである。[不要出典]
- 細かいことを気にしすぎないことが、心の健康を保つために重要である。世の中はすべて「程度」問題である。
- しかし、世の中には「程度」の表記に気を使っている人がいる可能性を1ミリも想像できない豪放磊落パターン1マッチョイズム原理主義マンは、周りの人間を少しだけイラつかせ、少しだけ疎まれている可能性があることに注意が必要である。