王公族の一覧

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王公族の一覧(おうこうぞくのいちらん)では戦前の日本に存在した身分である王公族を取り上げる。

李王家[編集]

徳寿宮 李太王 熈(高宗(韓国皇帝)
(り き、生没年1852年 - 1919年、在位1863年 - 1907年)李氏朝鮮第26代国王にして大韓帝国初代皇帝。韓国併合時には既に退位していたため「太王」の称号が与えられた。
(り とくけい、生没年1912年 - 1989年)高宗と側室の間に生まれた王女。日本の華族である宗家の当主宗武志に嫁ぐが後に離縁。
昌徳宮 李王 坧(純宗(韓国皇帝)
(り たく、生没年1874年 - 1926年、在位1907年 - 1926年)大韓帝国最後の皇帝。高宗の子にあたる。
昌徳宮李王 垠(李垠
(り ぎん、生没年1897年 - 1970年、在位1926年 - 1945年)純宗の異母弟(高宗の第7男子)にして大韓帝国最後の皇太子。韓国統監だった伊藤博文との写真で著名。日本の皇族である梨本宮家方子女王と政略結婚する。
李晋
(り しん、生没年1921年 - 1922年)李垠の第1子。「日鮮融合」の象徴として注目されるも1歳で夭折。その死には陰謀説がある。
李王世子 玖(李玖
(り きゅう、生没年1931年 - 2005年)李垠の第2男子。早世した兄に代わって王世子となるが日本の敗戦に伴い身位や日本国籍を喪失した。戦後はアメリカ留学や韓国での帰還を果たしたが、基本的には日本で日常生活を送った。子女はいない。

公家[編集]

公族は大韓帝国皇室の傍流の一族を対象に封じられた身位である。

李堈公家[編集]

李堈公(李堈
(り かん、生没年1877年 - 1955年)高宗の五男である。大変な放蕩家であるうえ抗日運動に関与したなど公族として問題がある人物であったことから1930年に隠居させられた。公族とされた子女は長男と次男のみで、以下に取り上げる。
李堈は生涯で妻妾との間に十二男九女を儲け、現在の全州李氏宗家は孫の李源(九男・李鉀の子)が継承している。
  • 妃:李堈公妃 金氏
李鍵公(李鍵
(り けん、生没年1909年 - 1990年)李堈の長男。李堈の隠居に伴って公位を継承した。父に冷遇されたことから父とは異なり日本への忠誠心が高く陸軍軍人として活動した。日本の敗戦後は王公位を喪失。喪失後に日本に帰化し「桃山虔一」と名乗った。帰化後に公妃だった妻と離婚し、後妻を迎えた。
  • 妃:鍵公妃 誠子 - 虔一と離婚後、長男と長女を引き取る。
李沖
(り ちゅう、1932年 - 2006年)李鍵の長男。日本への帰化後は「桃山忠久」と名乗った。
李沂
(り き、1935年 - )李鍵の次男。日本への帰化後は「桃山欣也」と名乗った。両親の離婚後、唯一虔一に引き取られた。
李沃子

(り ようこ、1938年 - )李鍵の長女。日本への帰化後は「桃山明子」と名乗った。

李鍝公(李鍝
李堈の次男。李熹公に養子入りし、公位を継承した。(後述)

李熹公家[編集]

李鍝公(李鍝
李熹公家を継承。広島で作戦任務遂行中、原爆投下に遭い殉職。
李清公(李清
父の逝去後、王公位を継承。戦後王公位を喪失。李玖逝去後も宗家継承の意を示さず。

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