1962年の中日ドラゴンズのユニフォーム

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1962年の中日ドラゴンズのユニフォーム1962年中日ドラゴンズが当時の監督濃人渉の要求を入れて変更した通称「濃人カラーユニフォーム」の事を指す。その年限りで濃人監督が退任したためわずか1年で封印された短命ユニフォームである。

デザイン[編集]

帽子・アンダーシャツ・ストッキングの色は紺色。スパイクシューズの色は黒のラインなし。帽子のC+DマークはCが白でDが黄色。ユニフォームの基調色はホーム用が白でビジター用はグレー。ホーム用のロゴ筆記体Dragons・ビジター用のロゴCHUNICHI・胸背番号は紺を黄色で囲んだもの。襟袖ズボンラインと左袖の中日新聞社章は黄色に紺の輪郭が描かれていたもの。このデザインから胸番号が小さくなった。

概要[編集]

1962年、濃人渉監督はその年のオフ東京六大学野球連盟出身の人気監督が欲しい」という親会社中日新聞社の実に身勝手な要望に加え、濃人が子飼いの選手を入団させた一方で、生え抜き選手を大量に放出したことに対してOBや地元ファンからの批判・突き上げもあり(出典:日本プロ野球トレード大鑑、ベースボール・マガジン社)、解任された。その年の解任と同時に封印されてしまったのが当該ユニフォームである。

1960年、2軍監督として中日入りしその年のオフに杉下茂監督の辞任により監督に就任するとルーキー権藤博をほとんどの試合で登板させるという無茶ぶりで読売ジャイアンツと優勝争いを演じ結局2位に終わったものの勝ち数で巨人を上回っていた。このため濃人監督は球団にユニフォームの変更を打診し、この年からその要求が入れられて当該ユニフォームが採用されていた。

濃人は戦前名古屋金鯱軍でプレーしていたが、同軍は黄色をユニフォームに取り入れていたためユニフォームのロゴ輪郭などに黄色を取り入れた。

これは、中日新聞社が、ドラゴンズの前身・名古屋軍の親会社だった新愛知(大島家)と、名古屋金鯱の親会社だった名古屋新聞(小山家)の合併会社であり、両社の出身者が持ち回りで球団オーナーを務める取り決めから、当時は名古屋新聞系のオーナーだったという事情もあった。なおこの前年までは、新愛知系のオーナーが名古屋軍のカラーだったえび茶色のユニフォームを採用していた(綱島理友『プロ野球ユニフォーム物語』参照)。

このオーナー持ち回りのシステムが、オーナー交代の度にユニフォームやフロント・監督・コーチの人事の刷新を繰り返すという弊害を生み、長期的なチーム作りを困難にしていた。

濃人監督はユニフォームを変えて8年ぶりのリーグ優勝をと目論んでいたが3位でシーズン終了。在任わずか2年で監督を退任した。そして杉浦清が監督に復帰し、新愛知系のオーナーが就任したためかドラゴンズブルーのユニフォームがはじめて登場する。ただし帽子のC+Dマークの色違いバージョンは1968年まで続く。