鶴崎敏康
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鶴崎 敏康(つるさき としやす、1949年10月17日[1] - )は、日本の政治家。埼玉県さいたま市議会議員。自由民主党真政さいたま市議団団長[2]。保育園「ナーサリーみくら」特別理事。
選出区は見沼区。つるさき敏康とも。
略歴[編集]
名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。評論家、新聞記者、雑誌編集長、ジャーナリストとして活動。また大宮市(現・さいたま市大宮区、西区、北区、見沼区)、浦和市(現・さいたま市浦和区、南区、桜区、緑区)に進学・補習の「あすなろ塾」を開校。幼稚園「レインボースクール」の園長も務めた。
1989年、大宮市議会議員に当選。以後7期連続当選。浦和市・大宮市・与野市(現・さいたま市中央区)の3市合併では、大宮の議会代表を務めた。2001年のさいたま市成立後は、同市議会政令指定都市推進特別委員会委員長、同市行政区画審議会委員[3]、同市区名選定委員会委員を務めた[4]。2005年6月8日、大宮出身では初めてのさいたま市議会議長に就任した(翌年6月7日まで)[5]。
会派「市民フォーラム・大宮」、「自民フォーラム21」、「大宮自民党」、「自民・彩政会」を結成し、団長を務めた。「自民・彩政会」は後に「自由民主党市議団」に合流した[6]。2017年3月9日、さいたま市議会で最大会派の「自由民主党市議団」(23人)の団長を辞職。3月10日、他7人の市議と同会派を離脱して新会派「自由民主党真政さいたま市議団」を結成し、団長に就任した[7][8]。
人物[編集]
- 「浦和市・大宮市・与野市合併協議会」委員、同第1小委員会委員長、同第4小委員会委員を務めた[9]。
- 大宮・浦和・与野の3市合併では、上尾市・伊奈町も含めた4市1町合併を一貫して主張し、3市合併を主張する浦和と対立した[10]。また新市名をめぐり浦和・与野が「さいたま市」、大宮が「大宮市」を主張して対立したが、新市役所の位置については大宮側の主張が通ったことから、大宮が譲歩して「さいたま市」となった。鶴崎曰く「断腸の思いで決断」したという[11]。
- 大宮市最後の市長だった新藤享弘は、2015年に刊行した『さいたま市誕生知られざる真実』(知玄舎)で、反新藤勢力だった鶴崎敏康、芝間衛、松本敏雄各市議を「困った三人組」と呼んでいる。
著書[編集]
- 『革命の現象学』 イザラ書房、1978年
- 『全共闘から対抗社会へ』 せきた書房、1986年
- 『アカシアの雨に打たれてこのまま死んでしまいたい――擬制の流行歌私史』 まんが:マディ上原、少年社、発売:雪渓書房、1988年
- 『〈さいたま〉の秘密と魅力』 埼玉新聞社、2010年
- 『埼玉の街ものがたり92』 埼玉新聞社、2014年
- 『誰も知らない埼玉』 さきたま出版会、2018年
脚注[編集]
- ↑ 埼玉県 当選者一覧 「地方こそ、成長の主役」平成27年度 第18回 統一地方選挙 自由民主党
- ↑ 鶴崎敏康 議員 自由民主党真政さいたま市議団 公式ホームページ
- ↑ 委員名簿 さいたま市
- ↑ さいたま市区名選定委員会委員名簿 さいたま市
- ↑ 歴代議長・副議長 さいたま市議会
- ↑ ホーム 【旧 自民・彩政会 (自民党市議団と合流しました)】のホームページ
- ↑ さいたま市議会で自民が分裂 議会運営巡り溝、民進が最大会派に 日本経済新聞(2017年3月11日)
- ↑ 自民さいたま市議団:分裂 市長選巡り8人、新会派 /埼玉 毎日新聞地方版(2017年3月11日)
- ↑ さいたまWeb/協議会・小委員会名簿 さいたま市
- ↑ 大岡みなみ ルポ/だれのため「広域合併」~さいたま市 セカンドインパクト/新聞に未来はあるか?
- ↑ 風は東から サンフロント21懇話会