鳥羽・伏見の戦い

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鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)は1868年(慶応4年)1月3日、旧幕府側と新政府軍との間で起きた戦いである。

前史[編集]

1867年(慶応3年)10月14日、大政奉還が行われ、15代将軍徳川慶喜は天皇に政権返上を申し出て翌日受理された。12月9日、王政復古の大号令が出され、新政府が樹立される。12月12日、徳川慶喜は二条城を退去し、翌日に大坂城到着するが、淀と枚方の間に部隊を展開して京都に立て籠もる新政府急進派を封じ込めた。自滅の危機にさらされた新政府急進派は戦争によって事態を解決しようと西郷隆盛の命による江戸での旧幕府方へのテロ活動を行った。12月25日、幕府側は薩摩藩のこの挑発行為に乗り、1867年(慶応3年)12月25日に江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにする。徳川慶喜は慶応4年元旦に「討薩の表」を出し、薩摩藩への攻撃を宣言する。1月2日、阿波沖で幕府海軍「開陽」と薩摩海軍「春日」が交戦する。これが阿波沖海戦である。

戦闘の経過[編集]

旧幕府軍本隊(幕府と会津・桑名藩の兵)は1868年(慶応4年)1月2日に大坂を出発し淀城に入る。1月3日、大目付の滝川具挙が率いる旧幕府軍は淀城を出陣する。二手に分かれ、一方は鳥羽街道を北上し、もう一方は伏見街道に分かれて京都に向け進軍した。新政府軍の兵力は約5,000人、旧幕府軍の兵力は約15,000人と3倍の兵力差があった。新政府側の薩摩藩は主として鳥羽街道、長州藩は伏見街道に兵を配置した。

鳥羽街道[編集]

旧幕府軍の幕府歩兵隊は、淀・伏見方面から鳥羽街道を北上して京都を目指した。新政府軍は、竹田、城南宮周辺に布陣し、鳥羽街道を北上する幕府軍と小枝橋で戦闘に入る。「将軍が勅命で京に上がるから通せ」という旧幕府軍大目付滝川具挙と、「勅命ありとは聞いていない、通せない」 という新政府軍の押し問答が続く間に発砲があり、午後5時頃に戦闘が開始された。旧幕府軍は戦闘になると予想しておらず、銃弾も装填していなかったため大混乱となる。薩摩軍有利のまま戦いは進行したが、日没により戦闘は終了した。旧幕府軍は下鳥羽まで後退する。最初の1日は1時間の戦闘であった。1月4日、後装式の新式小銃を使う幕府歩兵隊は、薩摩軍に対して反撃を開始した。その激しい攻撃により優位に見えたものの、薩摩軍は持ちこたえ、幕府歩兵隊は下鳥羽の陣地まで撤退した。この退却時に幕府歩兵奉行並・佐久間信久が被弾して戦死した。 薩摩軍は洋装で隊列を組み銃を装填し、後方に大砲、街道脇には小銃隊が待ち構えた。新政府軍は築山にアームストロング砲を設置し、旧幕府軍に大砲を打ち込んだ。新政府軍は、近代的な戦闘体制と圧倒的な砲火により旧幕府軍を圧倒した。

伏見街道[編集]

伏見奉行所から会津藩兵、新選組、幕府歩兵大隊が突撃し、戦闘が開始された。長州藩兵は御香宮神社を中心に伏見街道を封鎖し、奉行所を包囲していた。大手通りを挟んでの両軍の攻防が行われた。新政府軍は御香宮神社や東側の桃山方面(龍雲寺の砲台)から敵陣に大砲を打ち込み、伏見奉行所は焼け落ちた。

竹田街道[編集]

竹田街道には薩長の兵がおらず、そのまま進軍することができたが、途中で竹中重固から「撤収」の伝令がとどいたために、京都を目前にしながら引き返した。

1月3日夜、朝廷は仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任じ、1月4日には錦旗が掲げられため、旧幕府軍の士気が下がる。旧幕府軍は大敗し、大坂城まで撤退した。新政府軍の死者は110人、旧幕府軍は280人であった。徳川慶喜は大坂城での徹底抗戦を説いたが、もともと戦意が乏しかったため1月6日に会津藩主・松平容保らを連れて密かに大坂城を脱出し、軍艦開陽丸で江戸へ逃れた。総大将の逃亡により旧幕府軍は壊滅した。1月7日、朝廷は「徳川慶喜追討令」を発令した。

関連項目[編集]