顔含

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顔 含(がん がん、生没年不詳)は、西晋から東晋にかけての政治家顔之推の9代前の祖先にあたる。

生涯[編集]

顔含は琅邪郡臨沂県(現在の山東省臨沂市)の出身で、その経緯から西晋の皇族で琅邪王であった司馬睿に仕えた[1]。西晋が八王の乱永嘉の乱で混乱する中、司馬睿は江南に移住したがその際に顔含も行動を共にした[1]。このため、318年に司馬睿が元帝として即位して東晋が成立した際、顔含も要職に登用され、最終的に光録勲(宮殿の宿衛を司る長官)にまで上り詰めた[1]

ただし顔含は良く言えば剛直、悪く言えば頑固で世渡り下手だった[1]桓温が東晋の実力者として台頭した際、桓温が顔含を自派に取り込もうと縁談を申し込んだ際、「(顔含は)桓温の勢いが盛んであるため、承知しなかった」と『晋書』顔含伝に記録されている。『顔氏家訓』の止足篇では「靖侯様(顔含のこと)は息子や従子に「お前たちの家は書生の門戸(学問を旨とする家柄)であり、代々富貴になった者はいない。今後、お前たちは仕官しても2000石(郡の長官クラス)以上の地位に就いてはならず、結婚相手も欲張って勢力家を狙ったりしてはいけない」と言って戒めたという。このように顔含は権力や富貴に媚びず、地味に手堅く生きようとしたのである[2]

93歳と当時は驚異的な高齢をもって死去した[2]。子に顔髦顔謙顔約の3人がおり、顔髦は光録勲に、顔謙は安成郡太守に、顔約は零陵郡の太守になって父親の教えを遵守した[2]。なお、顔髦の家系から顔之推や顔見遠らを輩出している[2]

脚注[編集]

  1. a b c d 井波『中国人物伝Ⅱ、反逆と反骨の精神、三国時代 - 南北朝』P286
  2. a b c d 井波『中国人物伝Ⅱ、反逆と反骨の精神、三国時代 - 南北朝』P287

参考文献[編集]