青梅日向日陰戦争
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青梅日向日陰戦争(おうめひなたひかげせんそう/Ome City Hinata-Hikage War)とは、1950年代後半から1980年代まで東京都青梅市内で続いた紛争のことである。
概要[編集]
青梅市西部には、多摩川を挟んで北側が日向和田、南側が日陰和田と呼ばれる地域があった。北側は青梅街道と青梅線が通り、宮ノ平駅と日向和田駅も設置され、栄えていく一方だった。南側は八王子市から続く峠のような道(現在の吉野街道のルーツ)が通るだけで、青梅市内はもちろん、東側の西多摩郡瑞穂町や埼玉県入間市方面へ直接アクセスする方法がなかった。
紛争がさらに激化したのが1970年代中期で、北側に拠点を置いていた西武バスが青梅市西部から撤退し、埼玉県飯能市に拠点を移したため、北側の力が少し弱くなってきた。そのため、南側がさらに声を荒げるようになったが、子供たちのいじめ問題にも発展してしまった。
1970年代後半になると、青梅市・青梅市教育委員会がいじめ問題を調査、北側の子どもたちが、南側の子どもたちを「影の子ども」と罵倒するのが見られたため、青梅市は南側の日陰和田を和田町に改称した。
1980年代、和田町への改称とともに、争いは消え去った。