関東尾津組
関東尾津組(かんとうおづぐみ)は全日本飯島連合会飯島一家の尾津喜之助が組織したテキヤ系の暴力団である。
概要[編集]
淀橋警察署の内諾を得て、終戦日5日後の1945年8月20日、焼け跡になった新宿駅東口区画に「新宿マーケット」を開店した[1]。「あらゆる日用品の大量適正販売」を旗印に、新宿東口7万人の商店関係者を傘下に収めた[2][3]。動かない政府に代わり、無償で診療所を開設した。1945年10月には尾津喜之助を東京露店商同業組合の理事長に任命し、治安維持を任せる。GHQ支配下の警察は拳銃の所持さえ認めらず、外国人は機関銃を持っているため、警察はヤクザの力を借りなければならなかった。
尾津喜之助(1953)の著書『新やくざ物語』には後の内閣総理大臣 石橋湛山が序文を書いている。
「東京はいうに及ばず、日本中の都会では、露店は皆伝統的に与太者に支配されており、終戦当時にも彼らはボロ儲けをしていた。尾津も勿論その例にもれなかつた。商店は殆ど焼けて、商人はやむなく自分達を保護してくれる与太者の支配下に入って、街頭で露店を開くほか仕方がなかつた。徳川将軍の時代でも、こんな景気の良いことはなかつた。」とニューヨーク・ポスト特派員D・ベリガンは「東京のカポネ=尾津喜之助」で書く[4]。
その頃、新宿マーケットで働き、現在は吉祥寺ハモニカ横丁を取りまとめる水野秀吉は振り返る。「闇市がなかったら東京の人はほとんど餓死していたと思うね。裸電球がずらっと並んで、“闇市”というけれど昼間みたいに明るかった」
安藤昇は「戦後の混乱期でヤクザと警察は持ちつ持たれつの関係だった。治安維持にヤクザは一役買っていた」と語る。羽田ハガチー事件の際には全日本神農憂国同志会を結成した。尾津喜之助は東京露店商同業組合理事長として約7万人を傘下に“街の商工大臣”と称された。戦後の復興とともに、関東尾津組は解散した。