近松秋江
近松秋江(ちかまつしゅうこう、1876年5月4日-1944年4月23日)は、日本の作家。
人物[編集]
岡山県和気郡の農家の四男として生まれる。本名・徳田浩司。上京して樋口一葉の弟子になろうと樋口家を訪ねたら、一葉は数日前に死んでいた。東京専門学校(のち早稲田大学)に入り、正宗白鳥と親しくなり、島村抱月の教えを受け、白鳥とともに秋江の雅号をつけてもらい、当初は徳田秋江と名のったが、徳田秋聲の弟かと思われるので、尊敬する近松門左衛門に倣って近松秋江とした。
卒業後、読売新聞に入り、「文壇無駄話」などを書く文芸評論家として出発、小説も書くようになり、大貫ますを妻に迎える。だが秋江の、愛人を家に連れてくるなどの遊蕩に呆れてますは出て行ってしまう。このますに呼びかける形で書かれた小説が「別れた(る)妻に送る手紙」で、明治43年に発表された。その後秋江は、ますが家に出入りしていた学生と懇ろになって日光で同宿していたことを突き止めるなどして、「秘密」などを書く。平野謙は、明治40年の「蒲団」を私小説の嚆矢とする通説に対して、大正2年(1913年)の「秘密」と木村荘太の「牽引」を私小説の濫觴とする説を唱えた。
その後秋江は関西に長く滞在し、はじめ大阪の娼婦に耽溺し、ついで京都の娼婦に溺れるが、いずれの場合も「黒髪」という短編を書いているが、有名なのはあとのほうの、京都の娼婦の話で、これが連作となり「霜凍る宵」などで秋江の名を高めた。
だが京都の娼婦にはふられて帰京した秋江は、女のマッサージ師と結婚し、二人の娘を儲けるが、この妻の父や弟が暴力的で苦しめられるさまを『子の愛の為めに』に書いている。秋江は初期になじんだ娼婦を正宗白鳥にとられてから白鳥と疎遠になり、徳田秋聲と親しくしたが、夏目漱石や島崎藤村にも近づいていた。
結婚後の秋江は『水野越前守』などの歴史小説に手を染め、元来自分は馬琴のようなこういう小説を書きたかったのだと言っていたが、それらはほとんど売れず、貧苦に悩み、子供の教育費を菊池寛に出してもらったり、妻に再度マッサージ師をさせたりして、東京市を離れ、現在の杉並区あたりに住んだ。老齢となりメニエール病のため視力が怪しくなったが、1935年に国家主義的な文藝懇話会に媚びたりして何とか文学者として認めてもらおうとしたが、ついに一つも名誉に与ることなく、戦争中に病死した。
秋江文学の価値を見出したのは平野謙である。