越州軍記
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概要[編集]
著者・成立年代[編集]
奥書に「天正5年(1577年)4月中旬無宅八十歳書之」とあるため、成立は天正5年4月で、著者は80歳の無宅という人物ということになる。無宅という人物はあくまで推定だが、真柄隆久のことではないかと推定される。この人物は夢宅斎と号していたことがあり、あくまで可能性として挙げられている。ただ、80歳はかなり疑問視される。というのはこの人物は朝倉氏で猛将として知られた真柄直隆(十郎左衛門)の孫とされているからである。
本文に妙な記述が多い。例えば朝倉義景が傷害(自害)した翌年の記事で「去年」などと用いていたり、朝倉義景の娘が本願寺顕如の子・教如と結婚した時の記事を「今の門跡[注 1]の后婦は義景の息女にて云々」などとあることである。そのため、成立年代について奥書の記述が疑問視されている。
別称は『越前軍記』(えちぜんぐんき)、『朝倉記』(あさくらき)、『越州朝倉記』(えっしゅうあさくらき)、『義景記』(よしかげき)。
内容[編集]
全2巻。朝倉義景の盛衰と滅亡後の越前一向一揆について記している。上下2巻に分かれており、上巻は義景と織田信長の戦い、そして滅亡を記している。下巻は元亀から天正への改元と越前一向一揆で朝倉氏の旧臣が次々と滅ぼされていくことが記録されている。
なお、著者は朝倉義景にバイアスを置いているためか、義景を見限って信長に降伏し、そして滅んでいくさまを「浅猿かりし振舞也」「(滅んでいくことは)天罰」などと評している。