護持院原の敵討
護持院原の敵討(ごじいんがはらのかたきうち)とは、江戸時代後期の天保6年7月13日(1835年8月7日)に発生した女性による敵討ちである。この事件は森鴎外によって小説にもなっている。なお、護持院原は「護持院ヶ原」とも書かれる。
概要[編集]
天保4年(1833年)12月26日の夕方、播磨国姫路藩の江戸屋敷において、伊勢国出身の中間・亀蔵が遊ぶ金欲しさから藩士の山本三右衛門を殺害して逃走した。山本には娘に山本りよ、息子に山本宇兵衛がおり、りよが姉であったが、こうなると藩に敵討ちを願い出て認められ、姉弟は叔父の山本九郎兵衛の助力を得て亀蔵探索に乗り出した。
記録によると、山本姉弟は上野国厩橋、碓氷峠、木曾路、伊勢国、高野山、四国、広島、岡山と各地を歩いたという。そして江戸の浅草で遂に亀蔵を見つけた。この時、本来ならば弟の宇兵衛が敵討ちの首魁を為さないとならないのだが、宇兵衛は江戸に戻る途中の岡山で病気に倒れてりよや九郎兵衛と別行動を取ることになった。しかも病気が回復して急いで後を追わなければならないのに、その実木曽路において女郎屋にはまって遊び惚けるという失態を重ねた。
りよと九郎兵衛は、宇兵衛が来るのを待っていれば亀蔵に逃げられる可能性もあると考え、2人で行動を起こした。亀蔵を密かに尾行し、人通りが少なくなった護持院原において九郎兵衛が亀蔵を襲って捕縛。そしてりよが止めを刺した。
女性が敵討ちの本懐を果たすという前代未聞の行為に、江戸中で大評判となった。姫路藩主の酒井忠学もこの快挙を喜び、山本家の家督は女性であるりよが継承するように命じた。ただ、りよは女性なので婿養子を迎えるように命じ、相応しい婿養子も藩が探すことを約束したという。九郎兵衛も敵討ちに貢献したことで加増を受けた。しかし、宇兵衛については失態があることから忠学は家督継承を許さなかったという。