綏遠事件
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綏遠事件(すいえんじけん)とは、昭和11年(1936年)11月に発生した事件である。中国では綏東戦争(すいとうせんそう)と呼ばれている。
概要[編集]
日本の関東軍は中国への勢力拡大を図る一方、内蒙古への勢力拡大を企てていた。そして昭和11年(1936年)11月14日、李守信・王英、デムチュクドンロブらなどの傀儡部隊に綏遠省を攻撃させた。綏遠とは内蒙古の旧省名である。
李守信は関東軍が熱河作戦の時期から日本に近づいていた人物、デムチュクドンロブは中国の国民政府からの自治を要求して日本を後ろ盾に近づいてきた内蒙古の王族で通称は徳王、王英は蒋介石の部下だったが日本に敗れて投降していた軍人である。これら日本の傀儡軍は綏遠を攻撃するものの、当時の同省の首席・傅作義が指揮する中国軍に敗北した。さらに11月23日、傅作義の反攻により内蒙古軍の拠点だった百霊廟も占領された。これによりこの事件における日本軍の敗北、中国軍の勝利が確定した。
蒋介石は傅作義の戦勝を知ると、自ら20万を超える中央軍を率いて北上し、洛陽まで進出して傅作義らの支援を強化した。さらに蒋介石はこの事件の背後に関東軍がいたことを論難し、これが中国全土で抗日運動が拡大する契機となった。また、傅作義は中国に久しぶりの戦勝をもたらしたことで一躍、抗日の英雄として多くの人民から熱狂的な人気を集めることになった。
この事件は満州事変から日中戦争へ移り変わる一つの重要な転機となり、その後に西安事件、第2次国共合作が成立することになる。