純丘曜彰
純丘 曜彰 | |||||||
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純丘 曜彰(すみおか てるあき、Teruaki Georges Sumioka、1962年 - )は、日本の哲学者、メディア文化論・映画学研究者。大阪芸術大学芸術学部教授[1]。
用語[編集]
自証[編集]
古い中国仏教哲学とドイツ観念論の並行性にあえて再注目し、「自証」という術語を社会システム論において、存在概念の一として再定義した。すなわち純丘によれば、それは、本質が本質的に認識(述語付け)によるもの、とされる。その自己認識そのものが存在を定立する論理的存在様式。私は、私であるところのものである、がその典型。論理的にのみ存在が定立されているために、外延において内包としての共通性を持たない。また、純丘は、この概念を対証・衆証との関連において三対概念として再配置している。
衆証[編集]
純丘曜彰の存在概念の一。本質が本質的に不特定の他者の認識(述語付け)によるもの。それであるかどうかの判断が、不特定の他者に本質的に疎外されている論理的存在様式。それ自体においては、それであることを自証することができないだけでなく、判断すべき他者さえもそれ自体は特定することが許されていない。通貨は、不特定多数のだれかが通貨とするところのものである、がその典型。論理的にのみ存在が定立されているために、外延において内包としての共通性を持たない。
対証[編集]
純丘曜彰は、自証・衆証との関連においてこれを存在概念の一として再定義した。すなわち、本質が本質的に特定の他者の認識(述語付け)によるもの。それであるかどうかの判断が、その特定の他者に本質的に疎外されている論理的存在様式。それ自体においては、それであることを自証することができない。愛は、特定の他者が愛とするところのものである、がその典型。友情や敵意、主人・奴隷も同様の存在様式による。論理的にのみ存在が定立されているために、外延において内包としての共通性を持たない。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 純丘曜彰『論理・行動・生活そして経営』東海大学出版会、2001年(ISBN 4-486-01539-8)