対証
自己言及のパラドックスは、エピメニデスによるクレタ人の嘘つきとして古代ギリシア哲学の時代から知られていた。一方、トートロジーについては、「AはAである」のような直接的な同語反復は修辞法として認められたものの、「AゆえにBである。そして、BゆえにAである。そしてAゆえにBである...」のような循環論証は詭弁として否定的に扱われてきた。
しかし、近代哲学において、ヘーゲルは、「主人は奴隷の奴隷であり、奴隷は主人の主人である」として、その存在論的な論理学の弁証法において対証を肯定的に採り上げた。(つまり、服従する奴隷なしに、主人は主人という本質を持っては存在しえない、ということ。)その後、ディルタイが解釈学的循環の問題を指摘すると、ハイデガーもまたこれを実存の先駆性として肯定的に採り上げ、さらにサルトルは、ヘーゲルの弁証法やキルケゴールの実存の思想から、本質の疎外こそが、即自への頽落の危機をはらんだ人間という対自としての恒常的なあり方である(「自分であるのではなく、自分になる、(他人に期待される)自分を演じる」)とし、社会において、人はつねに他者のまなざしにさらされ、また、そのまなざしにまなざしを向け返す相剋にあることを論じた。そして、ジョン・レノンは、このサルトルの社会的な相剋による循環論証を肯定的に捉え、「愛することは愛してもらおうとすること」と歌った。
純丘曜彰は、自証・衆証との関連においてこれを存在概念の一として再定義した。すなわち、本質が本質的に特定の他者の認識(述語付け)によるもの。それであるかどうかの判断が、その特定の他者に本質的に疎外されている論理的存在様式。それ自体においては、それであることを自証することができない。愛は、特定の他者が愛とするところのものである、がその典型。友情や敵意、主人・奴隷も同様の存在様式による。論理的にのみ存在が定立されているために、外延において内包としての共通性を持たない。
株式の持ち合いも、一種の対証的な循環論証であり、その危うさが指摘されている。