自証
- 一般語彙。自分で自分に関することを証明すること。[1]
- 仏教用語。仏が他によらないで、自分で悟りを開くこと。[1]
- 哲学用語。ドイツ語の術語「Selbstbewusstsein」の訳語。今日ではあまり使われない。
仏教・哲学的な定義の例[編集]
一般に、存在論的な意味での自意識のこと。学者学説によって多様に定義される。
仏教の場合、saMvid(サンスクリット)の漢訳語。護法注釈による世親の『唯識三十頌』をインドから玄奘が持ち帰り、『成唯識論』として訳出した際にこの語が用いられた。この唯識論(法相宗)は存在論とその認識論を探求し、三科六識を越える第七の末那識において、第八の阿頼耶識を見かつ相として、この自証が用の第三の分として起縁するとされる。さらにこの自証を相として第四の分である証自証を起縁するが、ただしこの証自証を相とする見は、その体である末那識がすでに用を覚知しているのでもはや第五分は生じない。
明治時代においてドイツ観念論が日本に輸入された際、カントの『純粋理性批判』の翻訳においてこの中国仏教哲学の唯識論との並行性が認識され、阿頼耶識に相当する統覚に次ぐ末那識(意識(Bewusstsein))において、その自意識(Selbstbewusstsein)にこの「自証」の訳語が用いられた。とくにカントの哲学を継承し展開したヘーゲルにおいては、その独特の論理学において自意識を持つものが自己定立し存在するとされ、また、世界理性の認識論が存在論となって、法哲学との連関も持っていたために、「自意識」という訳語よりもこの「自証」という訳語が好んで用いられた(田辺元、西田幾多郎、戸坂潤、井筒俊彦、新田義弘などを参照)。しかし、その後、ドイツ観念論をあくまで中国仏教哲学とは別個に文献批判として歴史的に研究する立場が強まり、上記のような独自の思想を持つ哲学者を除いて、今日、自意識(Selbstbewusstsein)にこの「自証」の訳語を当てることはかならずしも一般的ではない。
哲学者で大阪芸術大学教授の純丘曜彰は古い中国仏教哲学とドイツ観念論の並行性にあえて再注目し、この「自証」という術語を社会システム論において、存在概念の一として再定義した。すなわち純丘によれば、それは、本質が本質的に認識(述語付け)によるもの、とされる。その自己認識そのものが存在を定立する論理的存在様式。私は、私であるところのものである、がその典型。論理的にのみ存在が定立されているために、外延において内包としての共通性を持たない。また、純丘は、この概念を対証・衆証との関連において三対概念として再配置している。