福原有信

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福原 有信(ふくはら ありのぶ、嘉永元年4月8日1848年5月10日) - 大正13年(1924年3月30日)は、化粧品会社・資生堂の創業者である。緑綬褒章受章者。

経歴[編集]

嘉永元年(1848年)4月8日、安房国松岡村(現千葉県館山市)で生まれる。父は薬学に秀でた漢方医の福原有琳、母・伊佐の4男であった[1]。祖父は漢方医の福原有斎である。幼少の頃より医学や薬草を学び、17歳で江戸で織田研斎に師事し医学を学ぶ。翌年幕府医学所に入り松本良順のもとで西洋薬学を学ぶ。1869年(明治2年)大学東校の中司薬雇(薬剤師)となる。1871年(明治4年)、23歳で海軍病院薬局長。海軍病院に転任後,福原有信は徳と結婚し、三田に世帯を構えた。

明治5年(1872年)2月26日の銀座大火により、東京の中心地である丸の内、銀座、築地一帯が焼け出された。3月矢野義徹,前田清則と福原は、3人で薬舗『三精社』を興すこととした[1]。焼け残った出雲町16番地(現在の銀座7丁目)の土蔵付き平屋の一戸建てを購入し、転居する。1871年,松本良順は山縣有朋の命により兵部省に入り,陸軍最初の軍医頭になっていた。

1872年(明治5年)、陸軍軍医総監・松本良順との共同経営で東京出雲町に開場院診療所を開き、薬種業「資生堂」の名で開設した。民間初の洋風調剤薬局である。医薬分業の制度を自らの薬舗に於いて実践するためであった。1階部分に薬局「資生堂」、2階部分に診療所「回陽医院」があり、医院で処方された薬を資生堂が調剤する。1878年(明治11年)から『けはへ薬 蒼生膏』、健胃強壮『ペプシネ飴』などの製造販売を開始した。1880年(明治13年)、育毛剤を販売開始する。1882年(明治15年)、東京薬剤師会創立。

1884年(明治17年)、国策会社の大日本製薬株式会社を創立した。同社は1898年(明治30年)、大坂の大阪製薬株式会社に吸収合併となり、社名は旧大日本製薬株式会社に改称された。2005年、大日本製薬株式会社は住友製薬株式会社を合併し、現社名の「大日本住友製薬株式会社」に商号変更した[2]

1888年(明治21年)に日本初の練歯磨『福原衛生歯磨石鹸』を発売した。従来の粉歯磨きの10倍の値段であったが、練歯磨による歯石・口臭除去の効能から売行きはよかった。1888年(明治21年)、帝国生命保険会社(現・朝日生命)創立に参画。1893年(明治26年)発売の『脚気丸』は、海軍軍医総監の高木兼寛説に基づいて開発されたものである。1896年(明治29年)には、郡長の吉田謹爾らとともに北条町南町に安房銀行(安房で最初の銀行)を創業した。1897年(明治30年)、高等化粧水『オイデルミン』を発売し、化粧品分野に進出した。東京帝大教授長井長義の処方によるもので、現在も使われているベストセラー商品である。1902年(明治35年)、東京・銀座の資生堂薬局内に、日本ではじめてソーダ水とアイスクリームの製造販売の「ソーダファウンテン」を開設した(現在の資生堂パーラー)。明治40年(1907年)、日本薬剤師会の第3代会長となる。大正6年(1917年)、化粧品部を独立させ商標「花椿」のデザインを始め、日本人の手で作られた最初の香水「花椿」を発売した。

1924年(大正13年)3月30日死去。77歳没。墓は館山の遍智院(小塚大師)と東京谷中西光寺(谷中6-2-20)の2か所にある。

福原の経営戦略[編集]

  • 開業広告でマスコミを意識した広報戦略を採用した。
  • 医学と薬学の分業を提唱した。福原が海軍病院薬局長に就任した明治の初めごろは、医者が診療も薬局も受け持ち、薬も漢方薬であった。
  • 商品販売に当たり、意匠を重視し西洋感覚の商品とした。
  • ソーダファウンテンの広報では、新橋芸者の口コミを活用した。
  • 高級志向のイメージ戦略にソーダファウンテンが役に立った。

参考文献[編集]

  1. a b 近藤順一(2017)「創業期の資生堂と福原有信の経営戦略」The journal of economic science 14,pp. 67-80
  2. 会社沿革大日本住友製薬,2018年11月29日閲覧