片倉喜多
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片倉 喜多(かたくら きた)とは、戦国時代の女性。鬼庭良直の娘。片倉景綱の異父姉。
概要[編集]
1538年に良直の娘として生まれ出る。その後同じ母に産まれた片倉小十郎景綱に、武道などの教養を行った。というのも景綱は若くして両親を失い、21歳差の姉を教育係の養母としていた。
景綱が伊達家の重臣まで成り上がると、喜多は過去の功績が称えられて景綱とともに伊達政宗の教育係となった。その後天正以後に豊臣秀吉の人質となるもその功績が称えられた。秀吉より小納言の位を与えられている。
これに対して政宗は喜多の秀吉との関係性が良くなっていく事を懸念し、蟄居を命じた。さらにこの理由以外にも、秀吉が欲しがっていた政宗の愛妾を喜多が勝手に秀吉のもとに送りつけた事が決め手となった。関ヶ原以後には蟄居が解かれ、白石城外に喜多庵を構えて晩年を過ごした。1610年、死去。
人物[編集]
武道や書道に励み、女性当主のような性格だったという。