楊祚

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楊 祚(よう そ、生没年不詳)は、三国時代遼東に割拠した公孫氏家臣

生涯[編集]

公孫淵がに対して反乱を起こした際(公孫淵の乱)、曹叡(明帝)の命令で238年6月に司馬懿率いる魏軍が遼東にやって来たので、同僚の卑衍と共に遼邃に駐屯して迎撃するが、司馬懿に配属された胡遵に敗れている。その後、司馬懿が襄平に進軍したので、遼邃の陣を放棄して首山で司馬懿と戦うが、ここでも司馬懿に敗れている。ここで卑衍が消息不明となっているのに対し、楊祚は逃げ延びて襄平城で籠城している。しかし、司馬懿による兵糧攻めで襄平城の兵糧が尽きたので、公孫淵を見限って司馬懿に投降した[1]

三国志演義』では公孫淵軍の先鋒の武将として登場し、同僚の卑衍と共に遼邃に駐屯。その後に陣を捨てて首山の戦いまで参加しているが、それを最後に姿を消している。

脚注[編集]

  1. 小出『三国志武将事典』P274

参考文献[編集]