松島治重

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松島 治重(まつしま はるしげ、1912年[1] - 1994年[2])は、日本の社会運動家[1]日本共産党名誉幹部会委員[2]。妻は女性国会議員第1号の柄沢とし子[2]

略歴[編集]

富山県中新川郡釜ヶ淵村(現・立山町)生まれ[3]富山師範学校在学中に日本共産青年同盟に加盟して退学処分[4]富山日報社東洋経済新報社、富山商工経済会に勤務[1][4]。戦後日本共産党に入党、富山県委員会を組織[1]。1947年富山県委員長となり、北陸地方委員も務めた。党が分裂した「五〇年問題」で当初は主流派と目されたが、のち主流派に批判的な立場に移ったとされる。その後、新潟県委員長、北陸地方委員会責任者を歴任[4]。綱領問題では北陸地方委員会書記として綱領路線を推進。また1957年の国鉄新潟闘争を第一線で指導し党中央に評価された。1958年7月の第7回党大会で中央委員、幹部会員、組織部長に抜擢。1959年夏からの党員倍化運動を推進。1961年7月の第8回党大会で書記局員、のち大阪府委員長[5]。同年12月の第2回中央委員会総会で幹部会員および大阪府委員長の任務に専任するため書記局員を解任[6]。大阪では構造改革派志田派の活動により党組織が混乱する中、組織再建に貢献[5]。また1964年志賀義雄除名後の党内の動揺を抑え党中央に評価された[7]。1970年7月の第11回党大会で常任幹部会委員となり[1]、党建設委員会責任者や大衆運動委員会責任者などを務めた。

脚注[編集]

  1. a b c d e 三省堂編修所編『コンサイス日本人名事典<第4版>』三省堂、2001年、1230頁
  2. a b c 女性国会議員第1号・95歳/松島(旧姓・柄沢)とし子さん/女性参政権行使から60年/人々に希望の灯をともす/党とともに歩んで しんぶん赤旗(2006年4月7日)
  3. 下里正樹、宮原一雄『母』新日本出版社、1991年、138頁
  4. a b c 俵孝太郎『日本共産党首脳部――野坂,宮本,不破,上田“日本共産党重役100人"から党の素顔と構造を分析する』太陽、1975年、153頁
  5. a b 朝日新聞社編『日本共産党』朝日新聞社、1973年、155-156頁
  6. 国民政治年鑑編集委員会編『国民政治年鑑 1962年版』日本社会党中央本部機関紙局、1962年、640頁
  7. 伊藤律『伊藤律回想録』文藝春秋、1993年、156-157頁