明治大合併
明治大合併(めいじだいがっぺい)とは、1889年の市制・町村制の施行に伴って行われた大規模な町村の合併である。
概要[編集]
従前の町村は正式な行政区画として定められていたものではなく、自然に形成されたものであった。しかし、市制・町村制の施行に合わせて新設される行政区画としての市町村にそれまでは主に道府県や軍が担っていた地方行政の役割の一部が移譲されることに伴い、それまでの規模の町村では求められる役割を全うすることが困難であったため、移譲される役割を全うできるだけの規模にまで町村を合併することが目的であった。
明治の大合併に伴い、全国の市町村の数は1888年12月31日現在の71314から1889年12月31日現在の15859(うち市は39)となり、77%以上削減された。これは後の合併でも類を見ない規模であった。また、それまでは「○○宿」や「○○駅」のように町・村の名を冠していないものがあったが、この機会に市町村を冠す名称に変更された。
合併の形態[編集]
都市部では、大都市だと複数の町に分かれていたりしたが、これらが全て合併して一つの「町」となった。特に、県都級の大都市は「市」とされ、郡から離脱した。
農村部では、従来集落単位の規模だったものが、人口3000人規模を目安に合併した。多くの村は、村内に小学校を1校(広い村だと2~3校)含み、多くの村で村の範囲=小学校の学区となっていた。
実例[編集]
兵庫県明石郡の場合、明石城下町が都市部、その他の地域が農漁村部と言える。
明石城下町を構成する東本町、西本町、東魚町、西魚町、中町などの15町と、村の集落が事実上明石城下町と一体化した大明石村、当津村、王子村、大蔵谷村が合併し、明石町が成立した。
明石町に併合された4村を除く他の村は、人口3000人単位で合併し、全11ヶ村となった。11ヶ村のうち、林崎村はもう残っていないが(林崎町や林崎松江海岸駅など、小さい範囲の地名・駅名としては残っている)、垂水村は神戸市垂水区として、他の9ヶ村は神戸市西区○○町あるいは明石市○○町として、明治大合併時とほぼ同じ範囲で現在も残っている。
明治大合併以降の大合併[編集]
明治大合併以降も、県知事の方針で大合併が行われた地域がある。愛知県では、県知事の深野一三が他県より小町村の多かった県全体で自治体を削減する施策を1906年に行い、この大合併で豊橋市が県下2番目の市制を敷いた。このため、愛知県では明治大合併期よりも1906年の大合併で昭和大合併前の大半の町村の枠組みが形成されることになった。
関連項目[編集]
- 町内会 - 明治大合併前の町村単位で構成されることが多い。