早野宏史

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
サッカーボール.jpg 早野宏史
選手情報
英字表記 Hiroshi Hayano
生年月日 1955年11月14日(65歳)
出身地 日本神奈川県
身長 169 cm
体重 59 kg
ポジション フォワード
クラブチーム
1978-1985 日産自動車

早野 宏史(はやの ひろし、1955年11月14日 - )は、神奈川県川崎市出身の元サッカー選手、サッカー指導者、解説者。

監督実績について[編集]

1995年の第1期横浜マリノス監督時代にチャンピオンシップを制覇しているが、実際にはホルヘ・ソラリ前監督の下で首位を独走していたマリノスが、同監督の胃潰瘍により退団することになった為にコーチから昇格し、ソラリのサッカーを踏襲したのみであり、早野本人も後年「あの時の自分はチームを作り上げたわけではない」と語っている。実際、1995年もソラリ就任中の成績は13勝3敗だったのに対して、早野就任後は19勝17敗(+チャンピオンシップ2勝)という成績にとどまった。当時全盛であったヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)のチャンピオンシップ3連覇を阻んだのは事実であるが、当時のマリノスはJSL時代から6年続いた"対ヴェルディ(読売)19試合不敗"[1] の記録を立てた後であり、チャンピオンシップでの2勝は必ずしも監督の手腕によるとは言い難い。

自身の色を出そうと取り組んだ1996年は8位という成績不振で、サポーターから解任を求める声を抑え切れなかったフロントは解任している。

ガンバ大阪時代は成績はトータルでは中位にとどまったものの、早野就任前のG大阪は1997年を除いて下位に低迷していたことを考慮すると、建て直しには成功したと言える。また若手を積極的に起用し、2002年以降のG大阪の躍進の基礎となる選手層を作ったことは評価する声も少なくない。

ここまでは「良くもないが決して酷くも無い監督実績」であったが、2004年途中に柏レイソルの監督に就任してからは目立った結果が残せない状態に陥った。

2004年シーズンは冒頭で述べられている通り最下位に終わり、また2005年シーズンも低迷し、クラブはシーズン後半にフランサなどの大物外国人を補強したが、(そのフランサが怪我で離脱したこともあったが)早野は彼らを十分に使いこなす事が出来なかった(早野はアタッカータイプの選手であるフランサを実績だけを見て、単なる点取り屋として勘違いして獲得してしまったことも低迷の原因である。フランサは早野が辞任した翌年の2006年シーズンは怪我がちだったものの本来のプレーを取り戻し、柏のJ1復帰や天皇杯準優勝に貢献し、また2007年以降2010年夏に退団するまで「チームの大黒柱」として絶大なチームとサポーターから信頼を置かれてた)。またシーズン終盤には「鶏を追いかけるトレーニング」などの奇抜な練習を行った。

最終的に柏はJ1・J2入れ替え戦で大敗した後に柏の選手達から「決まり事がほとんど無くて中途半端だった」という旨のコメントが出された [1]。当時の柏のチームとしてのプロ意識の低さや雰囲気の悪さを指摘する声もあるが、早野がこのクラブでは監督としての務めを果たせていなかった事が伺える。

柏時代、解任論が強まると何故か成績が一時的に良くなる傾向があり、当時を知っている柏のサポーターからは「アリバイ勝利」を行う癖があるとまで言われている。この流れに入った場合は相手が強豪チームであっても勝利を収める傾向にある(2005年の柏は浦和レッズに3-0と圧勝したり、同年優勝したガンバ大阪にもホームで勝利している)。しかし、そのような好調期は短期間で終わり、解任論の沈静化と共に再度成績は悪化していく。もちろん、対戦相手の居る世界で狙って「アリバイ勝利」できる訳ではない。しかし、この謎の傾向により、結果的に監督交代のタイミングを失うことになり、最終的に最悪な結果(=J2降格)を残す事になってしまったのが2005年の柏レイソルであった。

横浜F・マリノスの監督に就任した2007年シーズンは、「攻撃サッカー」を掲げ、4-3-3システムを採用。開幕戦の甲府戦こそ勝利したものの、その後J2からの昇格組に連敗を喫する。しかし、ナビスコカップ清水戦で4-4-2にシステム変更して上昇の切っ掛けを掴み、4節の広島戦に快勝してからはチーム状態が持ち直した。7節の大分戦、8節の新潟戦でそれぞれ5-0、6-0と圧勝し、続く川崎戦で勝利し3連勝を飾っており、采配への批判は以前に比べ沈静化していった。その後、11節の浦和戦で引き分けて以降、リーグ戦12試合無敗(6勝6分)、特に8月は横浜ダービーでの8-1の圧勝劇を皮切りに、5試合で4勝1分け19得点と絶好調であった。しかし、9月以降にナビスコカップ含め公式戦6連敗というチームタイ記録(過去の6連敗時も監督は早野であった)も残してしまっており、好不調の差がくっきりと現れた形となった。

2007年に横浜F・マリノスの監督に就任した際、早野自身は木村和司水沼貴史らのいた往年の日産のサッカー、前がかりで相手をおもちゃにした強い日産サッカーの復活が目標と述べていた[2]。「プレス」を前面に押し出したサッカーを採用し、「ハードワークをしない選手は起用しない」とも発言していた。若手の起用にも着手し、開幕戦では長谷川アーリアジャスール、続いて乾貴士らを起用し、特に小宮山尊信はレギュラーとして定着し、日本代表候補として合宿に招集されるまでに至った。それまで出場機会の多くなかった山瀬幸宏を抜擢し、レギュラーに定着させている。

ただし「決まり事を作れずに、意思統一がされていない中途半端なチーム作りをしてしまう」という柏時代に選手から声のあがっていた、指導力不足は古巣でも改善されたとは言えない。現にチームの選手内からも監督の手腕に疑問が持つコメントが3月のシーズン開幕直後から出てきてしまっている[3]

また2007年3月21日のナビスコカップ予選、対大宮アルディージャ戦の試合後に「トレーニングのパフォーマンスの40%も出せないことにびっくりした」というコメントを出した [2] が、試合前日までの練習風景を見ていた一部サポーターからは「練習内容が100%そのまま出ただけであり、早野のコメントは単なる責任逃れではないか」という声もあったという。

しかし、元監督の岡田武史でも建て直せなかったチームを建て直し、かつプレッシングサッカーを浸透させた手腕を賞賛して「早野を見直した」と称える声もある。数字的に見ても、早野が指揮を執った2007年は決して満足できる順位ではないが、賞金圏内となる7位を確保したのに対し、早野が退任した2008年以降で指揮を執った桑原隆木村浩吉木村和司の体制下では、木村和司の下で2011年に5位に入るまでは、いずれも8位以下の賞金圏外であり、早野体制時以上の数字は残せなかった。

脚注[編集]

  1. 1993年Jリーグ開幕節#開幕戦を参照のこと
  2. 東京スポーツ2007年2月13日
  3. 2007年3月21日のナビスコ杯予選第1節、対大宮アルディージャ戦後の 山瀬功治のコメント