早明政経論争

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早明政経論争は、早稲田大学明治大学政治経済学部の間で行われた、近代経済学マルクス経済学を主題とした論争である。

概要[編集]

ドイツの慣習に合わせて、政治学法学部の一部門と捉える考え方が主流であったなか、イギリスの慣習を採用して、早稲田大学で経済学とともに政治経済学部として発足した。同時期に開設された明治大学政治経済学部の場合は、早稲田大学の理念とは異なり、法学論争の観点からフランス法体系に由来するものである。

戦後において両校の政治経済学部は異なる特色を持つようになる。早稲田大学政治経済学部では行政学現代経済学を主とし、明治大学政治経済学部は社会学マルクス経済学を主とした学問体系を築いた。この二学部の間では経済学論争が起き、旧来から継承されていた現代経済学マルクス経済学の根本的、具体的議論が繰り広げられた。

学生運動の時期はマルクス経済学が主導権を握っていたが、冷戦構造の終焉を経て現代経済学の残存が固持されることになった。現在では明治大学政治経済学部でも現代経済学が主であり、マルクス経済学系の教員は多いものの、カリキュラムを見ても「社会主義経済学」、「ロシア東欧政治論」が必修ではない「応用科目」として存在している程度である。(注:「社会主義経済学」は現在、担当教員が居らず休講中である。)また明治大学では地域行政学科が設置され、行政学にも力を入れるようになっている。なお、早稲田大学政治経済学部の現代経済学を本論とした「政経研究論集」は経済学論集の権威とされている。

90年代以降、国際弁護士でエコノミストの湯浅卓氏等をオブザーバーとして多くのシンポジウムやディスカッションをゼミ連携で行っているが、公的な論争は影を潜めている。今日的には環境学平和学の展開を背景にマルクス経済学復権の様相も呈し始めている。明治大学政治経済学部を直轄として同校に軍縮平和研究所が開設されたことがその一例である。しかしながら、これらのパラダイムを超えた新たな政治経済学や文化的人間像を模索し続けていることに変わりはない。政治を見る際には経済、経済を見る際には政治が必須であるとした複眼的理念がそこには含まれている。早稲田大学政治経済学部は欧米、明治大学政治経済学部はアジアからの留学生が多い。

論争の内容[編集]

具体的な論争内容は以上の差異が主としてテーマとなったのであるが、60年代以降の学生を中心とした「政治経済学研究会」や教授陣の論文雑誌である「政経論叢」において中心の論点となった事項が数点挙げられる。

  • 社会政策は実務的な状況判断による施策が求められるのか(早稲田)、思想や理論を前提とした施策が求められるのか(明治)という点。これはまさに経済や景気動向に即する方法で柔軟性を持って政策を行うべきか、経済格差の是正や社会不安の払拭という理念を念頭に置き政策論を展開するのかという、現代経済学マルクス経済学の二項対立の様相が覗える。
  • 政治経済学という分野の領域に関する議論。早稲田では政治学と経済学の範疇をより専門化させるべきであるとの立場を重視し、明治では政治学と経済学に固執せず社会学人類学に目を向け、より広範な視点を確立しようというものであった。この構図はアメリカコロンビア大学(専門化重視)とシカゴ学派(広範性重視)の相互論争に類似しているとも言える。
  • サミュエルソン経済学の日本流入以後、経済学の規範をアメリカに置くか、ヨーロッパに置くかという議論。早稲田は戦後以降、アメリカで進展を見る各種経済学を逸早く吸収し教育に生かしたのに対し、明治はヨーロッパ系経済学を重視している。この議論は、学生教育をいかにして行うかという部分に帰している。特に早稲田の行政学と連携したアメリカ経済学の導入は効果的であった。明治は経済史を主とした教育から経済理論を構築させるべきとの理念から、即座にアメリカ経済学を真なるものとして取り扱った早稲田に対して批判を行った。