日本国号
日本国号(にほんこくごう)は日本国の国内および対外的な名称である。
やまと[編集]
古来からの日本国名・国号は「やまと」であった。古事記には「日本」の語は登場せず、すべて「やまと」と書かれている[1]。古事記には7か所で「夜麻登」が登場する。 小林敏男によれば、「やまと」はもともと地名であったとする[2]。「山門」(日本書記) 、「山処」、「山外」などの意味があるとされる。「やまと」の地に政治権力が確立されたことにより、国名となったと小林敏男は主張する。 魏志倭人伝には「邪馬台国」(ヤマト)が登場するため、これが最初の文献的記載となる。 そのほか、「耶麻謄」、 (魏志倭人伝)、とも表記される。また「倭」もヤマトと読む。
倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし (古事記・祝詞)[3]
倭・倭国[編集]
倭(わ、ゐ)は中国・朝鮮が日本を呼称するときの国名である。280年代に成立した「後漢書倭伝」には次のように書かれている。
倭在韓東南大海中依山㠀爲居凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 (略) 建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬
57年(建武中元二年)に倭奴國が使者を派遣し、光武帝から金印を受け取ったと書かれている。現在、福岡市博物館に残る金印(国宝)には「漢委奴国王印」と刻印されている。その解釈として「委奴国」は「倭国」と同じとする説と、「倭奴」の略字と解釈する説がある。いずれにしても、このころ日本を倭と呼称していたことが分かる。
朝鮮の歴史書『三国史記』に脱解王三年(59年)「倭国と結好する」と書かれている。
三年 與倭國結好交聘 (三国史記 卷一 新羅本紀)
脱解王は新羅の第4代王である。
さらに祇摩王十二年に倭国と講和すると書かれている。
十二年 春三月 與倭國講和 (三国史記 卷一 新羅本紀)
これらの文献において中国・朝鮮とも「倭」または「倭国」と呼んでいる[4]。
なお文献上における倭国の初出は『山海経』である。
蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す。 (山海経 第十二 海内北経)
日本[編集]
「倭」から「日本」の表記に変更された正確な時期は不明であるが、後述する小林敏男の説がある。国号表記変更の主体には以下の二説(他称説、自称説)がある。
他称説[編集]
「日本」の国号は中国から与えられたものとする他称説がある。 『史記正義』に「括地史にいう(略)、また倭国は西南大海の中に居る。凡そ百余国、京の南三万三千五百里にあり、案ずるに武后倭国を改めて 日本国と為す。」と書かれている。神野志隆光は日本を国号とするには中国に受け入れられる必要があったと指摘する[5]。中国王朝(当時は則天武后)が認めて初めて国号となるので、日本国号は中華的世界像の中で生まれたものであるとする。
日本側史料では弘安本『日本書記』に引かれる「延喜講記発題」に「□□(倭国)を改めて日本と為すこと唐国よりや、はた本朝よりや。説きて云う。唐より号くるところなり」と書かれ、日本側でも唐から授けられた国号との理解があった[5]。
自称説[編集]
日本書記自体は「日本」国号の制定については何も語っていない。そこで中国・朝鮮史料等に依拠することになる。
歴史的に史料に最も早く「日本」が登場するのは、『三国史記』新羅本紀の698年(孝昭王7年)3月条である。
日本国使至る。王崇礼殿に引見す。
上記記事に対応する時期は文武天皇二年であるが、続日本紀には何も書かれていない。しかし、697年(文武天皇元年)に新羅使が来朝している(続日本紀)ので、その返礼のため新羅に使いを派遣したと考えられる。
次に727年(神亀4年)の渤海国使の国書を日本書記が引用する個所に「日本」が現れる。
伏して惟みれば大王天朝命を受けて、日本、基を開き、奕葉光を重ねて本枝百世なり。
813年(弘仁4年)成立の『日本書記私記』甲本(『弘仁私記』序)に、
日本国は、大唐より東、万余里を去る、日は東方に出づ、扶桑を昇る、故に日本という。
と「日本」国号の由来を説明している。
『善隣国宝記』は「唐録」を引用して、次のように記載する。
天武天皇七年 『唐録』に曰く、則天の長安三年、日本国其の大臣朝臣真人を遣わし、来りて宝物を貢す。 因りていう。其の国日の出ずる所に近し。故に号して日本国という。
なお原文の天武天皇は文武天皇の誤りである。則天武后の長安三年は日本の大宝三年であるから、文武天皇七年である。
そのほか、続日本紀に粟田真人の帰国報告が掲載されており、唐から「何処の使人ぞ」と問われて、「日本国の使なり」と答えた。唐は「海の東に大倭国あり。これを君子国という。人民豊楽にして、礼儀敦く行わると聞く。今使人を看るに、儀容太だ浄し。豈信ならずや」と述べた。つまり、唐では遣唐使により初めて倭国が日本国と変わったと認識した。粟田真人が礼儀正しい人物であるから、その言葉を信用すると言ったのである。
結論的に、小林敏男は天武天皇10年3月の正史編纂にあたり公式に決定され、623年(天武天皇10年)の「浄御原令」で法的に公認されたと主張する[2]。さらに小林敏男は日本側での公式制定後、遣唐使の派遣に伴う則天武后の承認により日本国への改号は公式のものとなり、国際的に認知されたと述べている[2]。