劉如意

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劉 如意(りゅう にょい/りゅう じょい、紀元前207年 - 紀元前194年[1])は、前漢初期の皇族王。のち王。前漢の初代皇帝である高祖の庶子で3男[1]。生母は戚夫人[1]。隠王とされた。

生涯[編集]

劉邦の3男で、劉邦に似て活発で快活だったことから父から愛されたという。劉邦の皇太子は正妻・呂后との間に生まれた次男の劉盈であったが、この劉盈は心優しくて劉邦からは柔弱に見えたので、劉邦は頼りないと考えて劉盈を廃して劉如意を新たに皇太子にしようと画策した。これには生母の戚夫人が劉邦に立太子を望んだのも一因しているという[1]。しかし呂后をはじめ、多くの重臣らが反対したので実現せずに終わった[1]

紀元前195年に劉邦が崩御すると、皇太后となった呂太后は皇太子の座を奪われかけた恨みを忘れていなかったので戚夫人と劉如意に復讐しようとした。しかし劉如意には劉邦が生前に補佐を託されていた周昌宰相に付けられており、呂太后の心を読んでいた周昌は病気を理由に呂太后の長安召還を3度にわたり拒否した。呂太后は周昌がいる限り劉如意を召還するのは不可能と考え、周昌に長安への出頭を命じ、周昌が出頭した後で劉如意に召還を命じた。周昌に代わる人物がいなかったので、劉如意は長安に上京することになった。

異母兄で第2代皇帝となっていた劉盈こと恵帝も母親の復讐心は読めていたので、異母弟を守るために自ら覇上まで出向いて劉如意を出迎えて一緒に宮廷に入り、さらに起居を共にして母親が手出しできないようにした。しかしある日、恵帝は早朝から狩猟に出ようとしたが、劉如意はまだ少年で狩猟は参加できず、よく眠っていたので起こすのも悪いと考え、また早朝であるから母親も休んでいると考えて大丈夫と思い、そのまま自分だけで狩猟に出た。恵帝が劉如意から離れることを待っていた呂太后は女官鴆毒入りの酒を持たせて劉如意に飲ませて毒殺した[1][2]。享年14。

恵帝は狩猟から戻って来て劉如意の死を知り、自分の行為に後悔し、そして大いに悲しんだという。

劉如意が登場する作品[編集]

脚注[編集]

  1. a b c d e f 青木五郎、中村嘉広 編『史記の事典』大修館書店、2002年、p.505
  2. 青木五郎、中村嘉広 編『史記の事典』大修館書店、2002年、p.506

参考文献[編集]