恐怖の200日間

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恐怖の200日間(きょうふの200にちかん、英語:The 200 days of dread、ヘブライ語:מאתיים ימי חרדה;マタイム・ヤメイ・カラダ)とは、1942年の春ごろから11月ごろまでの期間のこと。1974年、ジャーナリストのハリブ・カーマンが同名の書籍を著したことから広まった。

概要[編集]

1941年、英領パレスチナユダヤ人社会は大きな恐怖に襲われていた。強制労働や虐殺などを平然と行い、ユダヤ人を極端に排斥するナチスドイツの勢力が、国の南北から迫っていたのである。

パレスチナの北方には、当時フランス領のシリアレバノンが位置していた。これら二つの植民地は、戦争前のフランス政府を前身とする自由フランス軍から離反し、ナチスドイツに与するヴィシーフランスに寝返った。ユダヤ人たちは、この地域を経由してドイツ軍に攻められることを非常に恐れていたが、イギリス主導のシリア・レバノン侵攻(エクスポーター作戦)が短期間に成功したため、北からの脅威は去った。

問題からは南からの脅威であった。エルヴィン・ロンメル率いるドイツ軍アフリカ軍団が、北アフリカで猛威を振るっていたのである。1942年に入ると、かの軍団はエジプト領にまで侵入した。今後カイロを陥落させ、スエズ運河を渡って英領パレスチナに到達するのは時間の問題とされた。パレスチナのユダヤ人社会は、前年よりも大きな脅威に焦燥しきっていた。

ドイツ軍アフリカ軍団が最も勢いづいていた時期、具体的には1942年の春ごろから11月ごろまでの7か月前後の期間は、後に恐怖の200日間と呼ばれることとなった。

戦後の研究で、パレスチナのユダヤ人の脅威は、アフリカ軍団のほかにも存在したことが判明している。ユダヤ人など、ナチスの敵性分子の虐殺を目的とする特殊部隊アインザッツグルッペンの一部が、パレスチナへの派遣のために編成されていたというのである。

1942年の夏、アインザッツグルッペ・エジプトと呼ばれる24人の特殊部隊が、ドイツ占領下のアテネで結成された。彼らは戦況に応じてパレスチナへと渡る予定であったことが明らかになっている。
そのほか、ドイツ軍がパレスチナを占領した場合のユダヤ人に対する措置について、専門家が議論を行っている。Klaus-Michael MallmannとMartin Cüppersは、アインザッツグルッペンを活用してユダヤ人の大量虐殺を行う予定だったと主張している。その際の人手は前述の24人では足りないため、当地の国防軍[1]が虐殺に協力することが前提とされた。一方、Haim Saadonは、ドイツ軍人の手記などから、パレスチナのユダヤ人は強制労働させられる予定であったと主張する。当時、アフリカの国防軍の後方支援が不足しており、少しでも多くの働き手が求められていたため、虐殺するよりも生かして戦争に協力させるほうが合理的だったと考えられるためである。

脚注[編集]

  1. ナチスドイツの正規軍。アインザッツグルッペンの残虐さには遠く及ばないものの、虐殺など戦争犯罪に協力したことがあった