御為筋一件
御為筋一件(おためすじいっけん)とは、江戸時代中期から後期にかけて近江国膳所藩で発生した御家騒動である。この騒動は家督争いではなく、短命な藩主が続いたことによる重臣(国許の家老と江戸詰家老の2派による争い)による主導権争いであり、半世紀にもわたって続けられたことで知られる。
概要[編集]
康桓の親政と家老の反撃[編集]
延享4年(1747年)8月、膳所藩の第5代藩主・本多康敏が死去した。康敏には実子が無く、初代・本多俊次から続く本多家の血統は断絶し、第6代藩主には河内国西代藩から本多康桓が養子に迎えられた。
康桓は藩主就任時点で25歳の青年で、領内に戻ると各地を巡見し、さらに治水工事や新田開発、産業育成などに力を入れた。しかし、これらの藩政改革にはあまり効果が見られなかった。何故かと言われると、養子である康桓を侮り、藩の上層部が腐敗して奢侈に溺れていたからである。農民は疲弊して不満を蓄積し、事情をようやく知った康桓は延享5年(1748年)にこれまで膳所藩で用いられていた斗升を廃止した。これは年貢収納のための升で、余りの重税で農民が疲弊する原因になっていた。養子として入った康桓はこの事情をようやく知って急遽廃止、さらにこれまで無気力な康敏の下で藩政を牛耳っていた家老・鈴木時敬を蟄居させ、その息子の鈴木時保も追放した。その上で名和通輝を登用して自らの側近に抜擢した。
しかし、長年にわたって藩政を牛耳っていた時敬の影響力はこれくらいで弱まるものではなく、彼は藩内における自派の人間を使って名和通輝を失脚に追い込んだ。これにより康桓の権威は失墜し、やむなく上席家老に本多豊昌を用いた上で、鈴木時敬に復職を許し、さらに時敬の腹心である名和朝諸(後の本多内匠)を家老に据えることを余儀なくされた。
この藩政改革失敗で、康桓は藩政に対する意欲を失って弟の本多康政を養子に迎えて隠居してしまった。康政は第7代藩主になって間もなく死去し、新たな第8代藩主には酒井忠寄の息子である本多康伴を迎えた。この間、鈴木時敬と名和朝諸は上席家老の本多豊昌すら飾りにして実権を掌握。藩内には倹約令を出して倹約を奨励しながら、自らは奢侈に溺れて藩財政を浪費する有様だった。
乱れゆく藩政[編集]
明和8年(1771年)、第8代藩主・本多康伴が32歳の若さで死去した。第9代藩主には康伴の長男である本多康匡が就任した。康匡は藩主就任時点で15歳の若さであったが、鈴木時敬と名和朝諸による贅沢な生活を問題視しており、就任と同時にこの両名を解任し、儒学者の中根之紀を勝手方元締に起用して藩政改革に当たらせた。この鈴木らの追放には、康匡の実家である庄内藩酒井氏の意向も働いていた可能性が指摘されており、つまり藩の外にまで鈴木の放蕩ぶりが知られていたことになる。
しかし、鈴木はまたも反撃に出た。膳所藩は地政学的に見ると、琵琶湖南岸の瀬田川流域を支配下に置く非常に重要な拠点に位置していた。そして、瀬田川の整備や修復のために多大な出費をたびたび必要として、そのたびに御用銀を領民に課していた。時敬は不満を抱いていた領民を扇動し、安永10年(1781年)1月に久保江の善五郎を首魁とする百姓一揆が遂に勃発した。この一揆は藩内全土に飛び火し、栗太郡では2000人の百姓が強訴、打ちこわしに及び、彼らは騒動をやめる条件として当時の藩政の主導者である中根の退陣、鈴木と名和の復職を要求した。恐らく、鈴木は復職の見返りに何らかのメリットを百姓側に提案していたものと推測されている。そして、この条件を拒否するだけの力がなかった康匡は、全て聞き入れた上で騒動の鎮静化を求めた。鈴木と中根は家老に復職し、中根は失脚して禁固刑に処された。そして、康匡はこの一揆が鎮静化された直後に死去した。
第10代藩主には、第7代藩主の孫にあたる本多康完が就任した。しかし就任時点で13歳の少年であり、藩政は鈴木により壟断されて、藩内には奢侈がまた広がることになった。鈴木の一番の問題は、自分以外の人間には倹約を命じておきながら、自分は奢侈を極めて乱脈政治を展開していたことにある。このような乱脈ぶりに他の家臣や藩士らは遂に不満を爆発させ、新藩主の康完に鈴木と名和の罷免を迫った。康完はこれを聞き入れて鈴木らを隠退させ、新たな家老に本多久武を登用しようとしたが、久武は鈴木の反撃や藩内の抗争に嫌気がさし、自ら辞退を申し入れた。
このように藩政は乱れに乱れ、藩財政は破綻寸前なのに、膳所藩は自浄作用が全く働かず無為な争いを繰り広げるだけだった。
幕府の介入、騒動の終焉[編集]
このような膳所藩の騒動は、藩外にも聞こえていた。恐らく江戸幕府にも早くから知られていただろうが、遂にそれを黙視することができないと見られたのか、寛政11年(1799年)に幕府は膳所藩に介入した。膳所藩の一族である本多修理を膳所藩の家老として送り込み、幕府の権力を後ろ盾にして藩政改革を行なわせた。さらに、それまで騒動の原因を成していた鈴木や名和らは逮捕し、鈴木は助命こそされたが知行は全て没収の上で隠居を命じられた。その他の一派の者、24名はこれまでの騒動の罪などにより死罪、永牢、追放に処した。こうして鈴木一派は解体され、ようやく御家騒動は終焉を迎えた。
延享4年(1747年)から寛政12年(1800年)まで、53年間にも及ぶ御家騒動の終焉であった。