彦坂直人
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彦坂 直人(ひこさか なおと、1962年〔昭和37年〕3月17日-)は、日本の囲碁の棋士。名古屋市出身、日本棋院中部総本部所属、九段。馬場滋九段門下[1]。 中部総本部の棋士として史上2人目の七大タイトル獲得者である。
経歴[編集]
昭和51年入段、52年二段、53年三段、54年四段、56年五段、58年六段、60年七段、平成元年八段、4年九段。
棋戦歴[編集]
- 1982年(昭和57年) 第6期留園杯争奪戦優勝
- 1983年(昭和58年) 第8期棋聖戦五段戦優勝
- 1998年(平成10年) 第36期十段戦で加藤正夫十段を3-2で破りタイトル十段位獲得
☆初の七大タイトル獲得
受賞歴[編集]
- 1997年(平成9年) 土川賞受賞
- 1998年 第36期、棋道賞優秀棋士賞受賞
- 2016年(平成28) 通算1000勝達成
人物[編集]
- 棋風は、軽快で、厚く、鋭く、戦上手である。
- 小松英樹九段は、院生時代に日本棋院中部総本部で、先輩の彦坂直人さん(現九段)に毎日のように打ってもらったという[2]。
- 11歳の頃、父親がアマ7段で、その父親が他の人と打っているところを見て碁を覚えた[3]。
- 学校の授業中、教科書に詰碁の本を隠して読んでいた[3]。
- 小学校の文集に「囲碁のプロになる」と書いた[3]。
- 昭和55年の「第5期名人戦挑戦手合」趙治勲挑戦者vs大竹英雄名人戦第4局(10月8日(水)、9日(木))で、趙治勲八段(当時)は記録係であった彦坂直人(当時六段)に「僕、取り番?」と質問し、彦坂が「はい」と答えて趙はコウを取った。ところが実際はコウ立てが必要であった。これは趙の反則負けであるが、趙八段は「ひどいや、ちゃんと確認したのに!」と抗議し、立会の石田芳夫九段が棋院関係者や新聞社と協議の末、無勝負を提案した。両対局者の回答は、大竹名人「裁定に従います」趙八段「異存ありません」であった。中山典之六段(当時)は「彦坂は碁打ちとしては天才だが記録係としては全く不適当な人選であった」と語っている。当時はコウの取り番を対局者が記録に確かめることが普通であったが、現行ルールは「記録は質問に答える義務は無い。また発言の責任を問われることも無い」と改定されている。コウの即取り返しはただちに反則負けとなる。なおこの手合は最終的に趙治勲八段が4勝1敗1無勝負で名人位を奪取した[4]。