平岡煕

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平岡煕(ひらおかひろし、1856年9月17日(安政3年8月19日) - 1934年(昭和9年)5月6日)は鉄道技師、野球選手、企業家である。「日本の野球の祖」と言われる。

概要[編集]

田安徳川家の家老平岡凞一の長男として江戸に生まれる。1871年(明治4年)に16歳でアメリカに留学した平岡は米国公使として赴任する森有礼に伴われサンフランシスコに到着すると、汽車が走っているところを見て感激し、鉄道の機関車両製造技術を学ぶ志望に決めた。ボストンで教育者の家に下宿し、小学校からハイスクールを中途退学し、機関車製造所で職工として従事しながら、3年間夜学に通い勉強した。渡米7年で立派な鉄道技師となった[1]

英語がうまかったため岩倉使節団の渡米中は木戸孝允の通訳を務め、一行中の伊藤博文の知遇を得た。帰国後は伊藤博文の紹介で工部省鉄道局に入り、新橋工場に勤めた。

官職を辞した後は、安田・大倉・奈良原と共同し、機械製造事業を起こす。また神田三崎町に機械製造所を設立した。本所錦糸堀(錦糸町)に平岡鉄工所として鉄道車両製造場を設立し、井上勝子爵の設立する汽車製造合資会社に加盟し、業務担当社員兼副社長となる。合資会社敬業社代表社員を兼ねる[2]

野球殿堂[編集]

日本野球の成長に大きく貢献した功績を称えられ、1959年(昭和34年)に野球殿堂(第1号)入りした[3]

平岡杯[編集]

日本初の本格的な社会人野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を結成した平岡煕の功績とその名を後世に伝えるため第35回全日本野球クラブ選手権大会(2010年)に「平岡杯」が制定された。[4]

係累[編集]

  • 妻 よね (山本長安長女、万延元年4月生)
  • 太郎 (長男、明治17年12月生)
  • よう (次女、明治15年6月生)
  • 治郎 (次男、明治23年11月生)
  • うた (長女、明治12年8月生)

注・参考文献[編集]

  1. 広瀬謙三(1964)『日本の野球史』日本野球史刊行会
  2. 内尾直二(1908)『人事興信録 第2版』人事興信所(国立国会図書館デジタルコレクション)
  3. 平岡 ●(●=にすいに煕野球殿堂博物館
  4. 平岡杯について