新橋アスレチック倶楽部
新橋アスレチック倶楽部(しんばしあすれちっくくらぶ)は、日本最初の野球チームである。「新橋クラブ」ともいう。
概要[編集]
平岡煕は米国留学時に機関車両・機械類製造技術のほか野球を修得し、1876年(明治9年)に帰国した。帰国時、米国みやげに野球道具を日本に初めて持ち帰った。 帰国後は伊藤博文の紹介で工部省鉄道局に入ったが、当時は工部省の官舎は新橋にあった。
1878年(明治11年)、工場の仲間や学生たちを集めて、平岡は日本で初めての野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を結成した。1878年(明治11年)新橋停車場構内に日本初の仮運動場を作った[1]。最初は数人の参加者であったが、明治22年ころは30名を超えている[2]。
平岡はアメリカでの体験からユニフォームを着けさせ、1880年(明治13年)、一同整列して写真を撮った。写真をアメリカで親交のあったスポルディングに送り、日本にも野球チームができた、と知らせた[1]。スポルディングはこれを新聞紙上に紹介した。スポルディングは運動具会社社長となっていた。
スポルディングは、アメリカでは従来のように素手ではなく、野球用にマスク・ミットを使うようになったことを知らせ、野球用具の揃い何組かを送ってきた。当時でも500ドルから600ドルしたが、無料で提供された。そのときに規則書も贈られた[1]。
1882年(明治15年)には野球場を新設し、これを「保健場」と命名した。
平岡は英語を教えるため、旧藩主の田安家や紀州候の屋敷にも出入りした。徳川達孝は野球に熱中し、邸内の泉水をつぶして運動場を作り、ヘリクレス倶楽部を結成し、新橋アスレチック倶楽部と対戦した。このころは、新橋アスレチック倶楽部は球界の盟主となった[1]。
しかし、1887年(明治20年)、平岡煕が新橋鉄道局を退職すると解散となり、野球場は鉄道用地となった[1][3]。