泊園書院

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泊園書院(はくえんしょいん)は四国高松出身の漢学者藤澤東畡が大阪に開いた学問所である。政界・官界・実業界・教育界・ジャーナリズム・学術・文化・芸術などの分野で多数の人材を輩出した。幕末から維新期にかけて名実ともに大阪最大最高の学問所であった。閉鎖時に2万冊余の蔵書は、現在、関西大学に泊園文庫として所蔵されている。書院の建物は戦災などにより失われている。

内容[編集]

民衆に漢学を教えた私塾である。東畡の別号は「泊園」である。「泊園」は私利利欲にとらわれないとの意味である。明治10年代の最盛期は、寄宿生と通学生を合わせて三百数十名という学生が在籍していた。

泊園書院跡の碑[編集]

  • 所在地:大阪市中央区淡路町1-5
  • 最寄り駅:地下鉄堺筋線「北浜駅」,地下鉄堺筋線・中央線「堺筋本町駅」

年譜[編集]

  • 1825年(文政8年)、東畡、大坂の淡路町御霊筋西(淡路町5丁目)に私塾「泊園塾」を開く。32歳。
  • 1838年(天保9年)、泊園塾、瓦町2丁目に移る。東西より従学する者多し。
  • 1853年(嘉永6年)、吉田松陰、森田節斎の紹介で東畡に面会する。
  • 1864年(元治元年)、12月、東畡、瓦町2丁目で卒す。享年71。
  • 1873年(明治6年)、南岳、大阪にもどり、船場唐物町八百屋町南へ入る西側(唐物町2丁目)に泊園書院を再興する。32歳。
  • 1902年(明治35年)、南岳、61歳で引退し、黄鵠、代わって書院の院主となる。
  • 1929年(昭和4年)、黄坡、関西大学専門部文学科教授となる。
  • 1948年(昭和23年)、黄坡の死去により泊園書院は幕を閉じる。

輩出した人物 [編集]