小島信夫

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小島信夫(こじま のぶお、1915年2月28日-2006年10月26日)は、作家。「第三の新人」の一人とされる。

人物[編集]

岐阜県稲葉郡加納町(現・岐阜市)生まれ。東京帝国大学文学部英文科卒。高校英語教師ののち、明治大学理工学部教授として英語を教える。

1952年「小銃」で芥川賞候補、54年、四度目の候補となり「アメリカン・スクール」で受賞。「無重力文体」と言われた。最初の妻をがんで亡くし、その経験から書いた『抱擁家族』で江藤淳らに絶賛され、1965年同作で谷崎潤一郎賞受賞。

1972年、『私の作家評伝』で芸術選奨文部大臣賞受賞。1981年『私の作家遍歴』で日本文学大賞受賞。1981年『別れる理由』などで日本藝術院賞、ついで日本藝術院会員。82年『別れる理由』で野間文芸賞受賞。94年、文化功労者。97年、「読売新聞」に連載した『うるわしき日々』で読売文学賞受賞。

『別れる理由』は、1968年から81年までの長きにわたって『群像』に連載された長編小説だが、内容はとりとめのない身辺雑記とも読め、途中から実在の人物が登場してくると話題になり、渡部直己のように厳しく批判する者や、江藤淳のように小島を評価する批評家も困惑するものだった。その後小島は次第に、『美濃』『各務原・名古屋・国立』などとりとめのない身辺雑記を小説として通用させるようになるが、これに対しては批判的な論者(小谷野敦など)と高い評価を与える論者(高橋源一郎堀江敏幸阿部公彦)があり、評価は定まっていない。ほかに批評文も多い。

桐山襲の、天皇へのテロを描いた「パルチザン伝説」が文藝賞の最終候補に残った時、選考委員だった小島は、こういうものを選んで自分が右翼のテロの標的となるのは嫌だ、と選評に書いて物議を醸した。大江健三郎は、小島からは冷淡に扱われ、才能がないと言われたと書いている。