小宮山倭

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小宮山 倭(こみやま やまと、1904年明治37年)5月2日[1] - 1988年昭和63年)1月15日)は、教育者、教育学者。武蔵野音楽大学名誉教授。専攻は特殊教育、音楽教育学[2]。元東京都立青鳥養護学校長。

経歴・人物[編集]

長野県佐久郡畑八村生まれ。1924年、長野県立野沢中学校卒業後、長野県立大日向村小学校代用教員を経て進学。1929年、東京高等師範学校英文科卒業後、長野県飯田中学校教諭、同上田高等女学校を経て、再び進学。1933年、東京文理科大学教育学科卒業。東京市立目黒高等女学校、東京市立忍岡高等女学校教諭、東京都立目黒高等女学校教頭を経て、1943年、東京都視学官[1]

1946年7月、教職適格審査で不適格指定を受ける。2審は適格となったが、1947年6月の3審では不適格指定を受け、1951年9月に解除されるまで追放生活を送る。この間、民間機関「中央教育研究所」の研究員、金子書房刊『教育研究事典』の編集主任を務めた[1]。1952年4月、東京都立青鳥中学校(1957年4月から都立青鳥養護学校に改称)校長に就任、初めて特殊教育界に入り、1965年3月に定年退職するまで14年間同校に務めた。同校は教科別に授業時間を設定しない指導体制を取っていたが、1959年以降は教科別に授業時間を設定する指導体制を取り入れるようになった。これには「斯界の教育実践の時代の流れと小宮山の教育思想が関係している」とされる[3]

1953年4月、特殊教育研究連盟が改組する形で全日本特殊教育研究連盟(全特連)が結成され、事務局長に就任した[4]。全特連初代理事長で戦後の特殊教育界に大きな影響力を持った三木安正が特殊教育の独自性を強調したのに対し、小宮山は「その一般性を強調し,教育一般,社会一般との共通性・連続性を志向」[3]したのが特徴である。

1965年4月、武蔵野音楽大学教授(教育学)に就任。1968年4月、同大学音楽教育学科長に就任し、大学院音楽教育専攻の開設・運営に携わった。1980年3月、定年退官。同4月、名誉教授[1]。その他、連合養護学校長会初代会長(1957~1963年)、全国知的障害養護学校長会初代会長(1963~1964年)[5]全国特殊学校長会初代会長(1963~1964年)[6]全国特殊教育推進連盟初代理事長(1964年12月~1965年2月)[7]全日本精神薄弱者育成会常務理事、全特連常任理事など、特殊教育関係諸団体の役員、国の各種審議会の委員、大学の非常勤講師を務めた[3]。1971年11月、藍綬褒章受章、1977年4月、勲四等旭日小綬章受章[1]

1988年1月15日、心不全のため、東京都渋谷区の病院で死去、83歳[2]

著書[編集]

単著[編集]

  • 『追いおとされたるものの心を』 小宮山倭、1981年
  • 『特殊教育の理念』 日本文化科学社、1984年
  • 『誠意があだで』 小宮山先生を偲ぶ会実行委員会編、小宮山先生を偲ぶ会実行委員会、1988年

編著[編集]

  • 『青鳥十年』 飯田精一、藤島岳共編、東京都立青鳥養護学校、1957年
  • 『精神薄弱児の特殊学級設置の要領』 三木安正共責任編集、日本文化科学社(特殊教育双書)、1960年
  • 『精神薄弱児講座 第2 精神薄弱児教育の教育原理』 責任編集、日本文化科学社、1962年
  • 『精神薄弱児の特殊学級の設置と運営』 三木安正共責任編集、日本文化科学社(特殊教育双書)、1964年
  • 『精神薄弱教育実践講座 第5 学校行事等と特別教育活動』 日本文化科学社、1966年
  • 『精薄教育の授業研究』 責任編集、日本文化科学社(特殊教育双書)、1967年
  • 『教育原理要論』 日本文化科学社、1969年
  • 『精薄教育における授業』1-5 日本文化科学社、1971年
  • 『教育原論』 松島鈞共編著、日本文化科学社、1983年

出典[編集]

  1. a b c d e 『特殊教育の理念』著者歴
  2. a b 「小宮山倭氏死去」『朝日新聞』1988年1月17日付朝刊31面(1社)
  3. a b c 小出進「小宮山倭」藤島岳、大井清吉、清水寛、津曲裕次、松矢勝宏、北澤清司編『特別支援教育史・人物事典』日本図書センター、2015年、182-183頁
  4. 概要 全日本特別支援教育研究連盟
  5. 概要と歴代会長 全国特別支援学校知的障害教育校長会
  6. 全国特別支援学校長会とは 全国特別支援学校長会
  7. 全国特別支援教育推進連盟 規約・沿革 全国特別支援教育推進連盟