大山利

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
大山 利
おおやま とおる
生年月日 1912年4月7日(112歳)
死没日 1968年10月4日(満56歳没)
出身地 茨城県
職業 司書、図書館関係者

大山 利(おおやま とおる、1912年4月7日 - 1968年10月4日)は日本司書図書館関係者。

略歴[編集]

1912年に茨城県に生まれる。父はヤンゴンでゴム割当[1]の業務に従事していたため、子どもの頃は祖父母に育てられた。25年、埼玉県立旧制中学校(現在の高等学校に相当)に入学するが、翌年には退学してしまう。28年に浦和高等学校(現在の埼玉大学)の図書館での勤務を始め、42年に遠藤哲嶺の紹介を受け日本図書館協会の要職に就任する。日本図書館協会就任時は、日本出版配給での図書選定業務も行っていた。45年に同協会を退職し、東京都立日比谷図書館で働くが、当時の日比谷図書館長である中田邦造の退職[2]に併せ自らも退職、48年に再び同協会要職へ就任した。42年から45年を含めた5年間に渡り、協会発行の月刊誌『図書館雑誌』の編集に携わり、最終的に50年に退職した。その後は『図書館年鑑』の刊行、児童図書館研究会の発足に尽力するが胃がんを患い、68年に病死する。享年56歳。

家族[編集]

1946年に女性と結婚し、翌年8月に男児を儲けている。それ以外の記録は残っていない。

人物像[編集]

児童図書館研究会の発足に携わった大河内芳子は、大山を「大変な勤勉家」「卓抜なアイデアマン」と、優れた人であると評した。一方で、学歴のなさを他で補うべく努力を重ねていたものの、学歴社会は正当な評価をしなかった、故に「不遇の人」であったように感じる、とも評価している。

日比谷図書館の退職に際して、大山がつけていた日記には「わたしは、中田氏に殉じていさぎよく玉さい[ママ]することに覚悟を決めた。何でこの恩ぎ[ママ]ある人に弓を引くことができようか」と記されており、以前の日にも「中田氏の温情が、じぶんの家の苦境をすくってくれたのだ」と書き残していることから、何らかの経済的援助を 中田邦造から受けていたと考えられる。

著書・編書[編集]

  • 『図書館年報』 図書館資料社、1951年10月23日
    • この図書は当時の国立国会図書館副館長の中井正一、同図書館受入整理部長の協力のもと、刊行された。
  • 『図書館講座』 春陽堂書店、1954年1月
    • 『こどもの図書館』には「通論編」「整理編」「サーヴイス編」が刊行されたと記録されている。複数回に分けられて刊行されたとみられるが、国立国会図書館サーチの検索結果と『子どもの図書館』記載の「全四巻」の文言が一致しない。後に『図書館学とその実務』として合本刊行されている。
  • 『図書館学とその実務』 春陽堂書店、1957年
    • 編者として大山の名が記されているが、大山は関わらずに出版されたものであろう、と稲村徹元は考えている。

註釈[編集]

  1. 参考文献より原文ママ。配給に関係する業務か?
  2. 日比谷図書館職員組合による館長排除運動による。詳細は日本語版ウィキペディアに詳しい。

参考文献[編集]

  • 『日本児童文学大事典 第一巻』 大阪国際児童文学館、大日本図書、1993年10月31日、第一版、148頁。ISBN 4-477-00376-5
  • 大河内 芳子「創世記の児童図書館研究会1 大山 利さんのこと」、『こどもの図書館』第31巻第11号、児童図書館研究会、1984年11月NDLJP:3434021
  • 稲村 徹元「大山さん追想 同じ街に住む者として」、『こどもの図書館』第31巻第11号、児童図書館研究会、1984年11月NDLJP:3434021
  • 児童図書館研究会, ed.「大山利(とおる)年譜」、『こどもの図書館』第31巻第11号、児童図書館研究会、1984年11月NDLJP:3434021