大内義隆記
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大内義隆記(おおうちよしたかき)とは、戦国時代の史料である。
概要[編集]
著者・成立年代[編集]
著者は不明。ただし、大内氏か陶氏にゆかりがある者と思われる。大寧寺の変を引き起こして義隆を滅ぼした陶晴賢ら反乱軍の面々に対する批判が全く見えない、また、毛利元就やその一族に対して「殿」と敬称を付けているところから、大内氏滅亡後に毛利氏に仕えた大内旧臣の誰かの可能性がある。推定では大内氏の側近を務めた日継須益が挙げられている。
『群書類従』の奥本では天文21年(1552年)11月中旬に成立したとある。陶晴賢の滅亡(厳島の戦い)に関する記述が無いため、少なくとも天文24年(1555年)以前の成立ではないかと思われる。
別称は『大内義隆物語』(おおうちよしたかものがたり)、『大内義隆卿記』(おおうちよしたかきょうき)、『大内義隆合戦記』(おおうちよしたかかっせんき)、『大内記』(おおうちき)、『大内物語』(おおうちものがたり)、『多々良衰退記』(たたらすいたいき)、『多々良記大内聞書』(たたらきおおうちもんじょ)など多数。
内容[編集]
全1巻。戦国時代に中国地方や九州地方で覇を唱えた西国随一の戦国大名であった大内義隆の1代記である。
義隆の盛衰について物語っており、義隆を賞賛する記述も目立つ。しかし、尼子晴久との戦いで敗れ(第1次月山富田城の戦い)、文治趣味に走ったり、相良武任を寵愛して家中を乱し、遂に陶晴賢の大寧寺の変を招き、義隆をはじめ一族は殺され、滅亡した。その後、陶晴賢により大内義長が新たな当主として山口に迎えられ、大内領国は一応平穏になったとして終幕を迎えている。