周昌

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周 昌(しゅう しょう、? - 紀元前192年[1])は、中国末期から前漢初期にかけての武将政治家劉邦とその息子で趙王の劉如意に仕えた。従兄に周苛がいる。

生涯[編集]

沛の出身。従兄の周苛と共に泗水郡の卒史を務めていた[1]始皇帝崩御して秦が騒乱状態になると、劉邦に仕えて秦を滅ぼすのに功績を立てた。劉邦が漢王に即位すると周苛は御史大夫に、周昌は中尉に任命された[1]紀元前204年項羽の攻撃により周苛が滎陽で処刑されると、後任の御史大夫に任命されて、後に汾陰侯に封じられた[1]

剛直で誰にでも直言する性格から劉邦から厚い信任を受け、劉邦は後継者争いで呂后が劉如意を恨んでいるのを知っていたため、周昌を劉如意配下の趙の宰相に任命して劉如意を守らせようとした。紀元前195年に劉邦が崩御すると呂太后の復讐が始まり、劉如意を殺すために長安に呼び出そうとした。しかし周昌は皇太后の考えを見抜いていたので病気と称して3度も拒否した。すると皇太后はならば周昌に長安に来るように命じ、周昌が留守になった隙に別の使者を趙に送って劉如意を召還し、紀元前194年に劉如意を毒殺した[1]

劉如意を守り切れなかった周昌は責任を感じて、以後は病気と称して2度と参内することなく、3年後の紀元前192年に死去した[1]

劉如意が登場する作品[編集]

脚注[編集]

  1. a b c d e f 青木五郎、中村嘉広 編『史記の事典』大修館書店、2002年、p.502

参考文献[編集]