呉林俊
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呉 林俊(オ・リムジュン、ハングル:오림준、1926年 - 1973年9月3日)は、詩人、画家、評論家[1]。在日朝鮮人2世[2]。
経歴[編集]
朝鮮・慶尚南道生まれ[2]。4歳のとき両親と共に来日[1]。19歳のとき日本兵として徴兵[3]、従軍を経験[2]。陸軍二等兵[1]。日本の敗戦後は朝鮮学校の美術教員を経て、美術と詩の創作および評論活動を展開[1][3]。
1973年9月3日[4]、心筋梗塞により急逝[3]。47歳没[4]。
人物[編集]
- 朝鮮植民地支配終了後も継続する日本の植民地主義、在日朝鮮人排除を鋭く告発した。小説家の小林勝(1927 - 1971)と盟友関係にあり[2]、小林の告別式の弔辞で「朝鮮人が、日本にいる朝鮮人がその戦前と戦後をわけて考えることができないように、あなたにとっての〈朝鮮〉もまた、決して断絶した世界として成立することは不可能でありました。」と述べた[5]。また小林の追悼論文で尾崎秀樹ら「外地引揚派」が小林を黙殺したことに「日本文壇」の欠陥を見た[6]。
- 思想の科学研究会編『共同研究 日本占領』(徳間書店、1972年)に「日本占領と朝鮮人」を執筆した。評論家の野崎六助は共同研究のテーマの一国性という限界を指摘しつつ、その「最大の功績は、呉林俊のこの一篇に発表の場を提供したところにあるのかもしれない」と述べている[7]。研究会を主導した佃実夫は続編にあたる『共同研究 日本占領軍 その光と影(下)』(現代史出版会、1978年)のあとがきで既に故人となっていた呉について触れている[4]。
- 在日本朝鮮文学芸術家同盟神奈川支部(神奈川文芸同)の委員長を務め、日朝友好展に関わった[8]。
著書[編集]
- 『海と顔――呉林俊詩集』(新興書房[新興双書]、1968年)
- 『記録なき囚人』(三一書房[さんいちぶっくす]、1969年)
- 『記録なき囚人――皇軍に志願した朝鮮人の戦い』(社会思想社[現代教養文庫]、1995年/文元社[教養ワイドコレクション]、発売:紀伊國屋書店、2005年)
- 『朝鮮人のなかの日本』(三省堂[三省堂新書]、1971年)
- 『日本語と朝鮮人』(新興書房、1971年)
- 『朝鮮人としての日本人』(合同出版、1971年)
- 『在日朝鮮人』(潮出版社[潮新書]、1971年)
- 『朝鮮人の光と影』(合同出版、1972年)
- 『見えない朝鮮人』(合同出版、1972年)
- 『朝鮮人のなかの《天皇》』(辺境社、発売:勁草書房、1972年)
- 『絶えざる架橋――在日朝鮮人の眼』(風媒社、1973年)
- 『海峡――呉林俊長篇叙事詩篇集成』(風媒社、1973年)
- 『伝説の群像――朝鮮人と日本語』(同成社、1974年)
訳書[編集]
- 『アリランの歌ごえ――現代南朝鮮詩選』(訳編、新興書房[新興双書]、1966年)
- 『アメリカ第八軍の車輪』(鄭孔釆著、新興書房[新興双書]、1967年)
出典[編集]
- ↑ a b c d 第5回企画展 在日韓人歴史資料館ホームページ
- ↑ a b c d 原佑介「「チョッパリ」とオクスニ -小林勝の文学における植民者と「もう一つの」朝鮮」『コア・エシックス』Vol.7、2011年
- ↑ a b c 自叙伝 在日韓人歴史資料館ホームページ
- ↑ a b c 占領期を知るための名著 Vol.29 思想の科学研究会編『共同研究 日本占領軍 その光と影』 GHQ.club
- ↑ 呉林俊「弔辞」『新日本文学』1971年7月号、76頁。原佑介「「チョッパリ」とオクスニ -小林勝の文学における植民者と「もう一つの」朝鮮」『コア・エシックス』Vol.7(2011年)からの孫引き。
- ↑ 原佑介「「引揚者」文学から世界植民者文学へ ―小林勝,アルベール・カミュ,植民地喪失―」『立命館言語文化研究』24巻4号、2013年3月
- ↑ 占領期を知るための名著 Vol.28 思想の科学研究会編『共同研究 日本占領』 GHQ.club
- ↑ 〈第50回神奈川日朝友好展〉副実行委員長・渡辺暁男さん 朝鮮新報(2012年6月4日)
関連文献[編集]
- 磯貝治良『始原の光――在日朝鮮人文学論』(創樹社、1979年)
- 村松武司『遥かなる故郷――ライと朝鮮の文学』(皓星社、1979年)
- やまぐちけい『風の伝説』(書肆青樹社、1994年)
- 呉林俊33周忌実行委員会編『33周忌記念誌 呉林俊』(2005年)
- 尹健次『「在日」の精神史3 アイデンティティの揺らぎ』(岩波書店、2015年)
- 原佑介『禁じられた郷愁――小林勝の戦後文学と朝鮮』(新幹社、2019年)
外部リンク[編集]
- 呉林俊オ・リムジュン[1926-73]著作年譜 - 在日朝鮮人文学論 資料倉庫