劉秉忠
ナビゲーションに移動
検索に移動
劉 秉忠(りゅう へいちゅう、1216年 - 1274年)は、元初期の政治家。フビライ・ハンに仕えた参謀として知られる。字は仲晦(ちゅうかい)[1]。法名は子聡(しそう)[1]。父は劉潤。
生涯[編集]
邢州(現在の河北省邢台県)の出身[1]。父はモンゴル帝国に仕えており、その縁で劉秉忠も邢台節度使府令史となった。ところが吏事を嫌って仏門に入った[1][2]。雲中(現在の山西省大同)で臨済宗の海雲禅師の知遇を得、その海雲から高い知能を認められた[2]。そして海雲の推挙でフビライに仕えて還俗した[2]。
フビライはモンゴル皇族として所領を得ていたが、邢州すなわち劉秉忠の故郷が所領であり、この邢州には1万戸の民衆がいたがフビライが領主になってから700戸余まで減ってしまったので、劉秉忠はフビライから対策をとるように命じられた[2]。民衆が減ったのはフビライ配下の徴税官が搾取しすぎたのが原因であり、劉秉忠は夫役を軽くして租税を薄くすれば戸数は自ずから増えると述べた[2]。フビライがその通りにすると1年で数倍も戸籍が増え、数年で1万戸を超えた[2]。これを機にフビライの信任を得た劉秉忠は随一の謀臣となった[2]。
以後はフビライの下で辣腕を振るい、大元の国号を定めたり、中統の年号を立てたり、官制を整備したり、紙幣による通貨改革を行なった[2]。現在の北京の原型となった大都も劉秉忠の縄張りによるものである[2]。1274年に59歳で没した。
1世紀半後に明の永楽帝の下で同じく僧侶から参謀にのし上がった姚広孝は劉秉忠の生まれ変わりと称された[1]。