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神功皇后(じんぐうこうごう、生没年不詳)は、記紀によると仲哀天皇の妃で新羅遠征説話の主人公であり応神天皇の母とされる人物。日本書紀には別名、気長足比売尊[読 1]、古事記では別名、息長帯比売命と記載されている[1][2]。
通説[編集]
日本書紀によると、神功皇后の父は開化天皇の曾孫である気長宿禰王[読 2]、母親は葛城高顙媛[読 3]。古事記によると、神功皇后の父は開化天皇の玄孫で母は新羅国の王子である天之日矛[読 4]の五世の孫にあたると記載されている[1][2]。
仲哀天皇が熊曾征伐に赴く途中に筑紫の香椎宮に到着した。その時、神功皇后は「熊曾征伐では無く朝鮮半島の国を征服せよ」との神託を受ける。この神託を信じなかった仲哀天皇は急死する[1][2]。仲哀天皇の死後、神宮皇后は「胎内の子とともに朝鮮半島の国を征服せよ」と再び神託を受け、神託に従い神功皇后は妊ったまま新羅を攻撃し新羅を服従させる[1][2]。
帰国後、神功皇后は皇子(のちの応神天皇)を筑紫の宇美で出産する。さらに大和に帰還し応神天皇の異母兄弟で謀反を図った忍熊王[読 5]を滅ぼす。この後、皇子は武内宿禰[読 6]に伴われ鹿角でみそぎを行い名を変える。成人して帰った皇子を、神功皇后は御祖[読 7]として待ち構え祝福する。応神天皇が即位するまでの69年間にわたり神功皇后が政治を行った[1][2]。
実在性については通説においては否定的で伝説ととらえられている[1][2]。古事記には応神天皇の時代から天皇の事績が記述が具体化し[3]、応神天皇から日本の文明時代が始まると考えられている[1]。また、古くから朝廷に伝承されていた朝鮮半島侵略の物語と、各地で語られていた民間伝承の母子信仰や、古代豪族の息長氏の伝承や七〜八世紀の古代天皇制の思想によって脚色を脚色を受けたものが記紀に記述されたと考えらている[2]。
脚注[編集]
読み方[編集]
出典等[編集]
参考・引用等[編集]
- 倉塚嘩子 『世界大百科事典』14巻、下中直人、平凡社、2007年9月1日、改訂新版、265-266頁。
- 竹田恒泰 『現代語古事記 ポケット版』 学研プラス、2016年6月28日 発行、1st。ISBN 978-4-05-406454-6。
- 塚口善信 『日本大百科全書』12巻、相賀徹夫、小学館、1986年11月1日、初版第一刷、489-490頁。