光文(こうぶん)とは、大正の次の元号に使われる予定だった元号である。
大正15年(1926年)12月に大正天皇が48歳で崩御した後、まだ次の元号が発表されていないのに東京日日新聞が勝手に「次の元号は光文だ」と宣言したため、問題となった。この問題を光文事件と名付けられた。なお、当時の宮内省が情報が漏洩したことに腹を立て、内定した「光文」から「昭和」に急遽変更したという説もある。昭和の次の元号は「旭日(あさひ)」「和光」ではないかという新元号予想も存在した。