住友赤平高等鉱業学校
住友赤平高等鉱業学校(すみともあかびらこうとうこうぎょうがっこう)は、北海道赤平市にかつて存在した企業内の各種学校。
将来の住友石炭坑を担う中堅技術者を養成することを目的として、1958年(昭和33年)開校。
当初は住友赤平鉱業学校と呼ばれていた。姉妹校に住友奔別高等鉱業学校(すみともぽんべつこうとうこうぎょうがっこう)がある(三笠市奔別に1958年4月6日開校、当初は、住友奔別鉱業学校)。
概要[編集]
所在地は北海道赤平市字赤平485番地、移転先の新校舎所在地は赤平市字赤平599の1番地。
校訓は、質実剛健の気風と和を重んじた「不撓不屈 和衷協同」の精神であった。住友の理念である「信用」と「誠実」は、住友グループ全体に掲げられていて、「誠実」が住友奔別高等鉱業学校の校訓となった。
修業年限は3ヶ年(全日制)。全校生徒に制服と制帽、奨学金などが支給される特典が与えられた。
1年生は、滝川市にある陸上自衛隊で体験訓練が5日間ほど実施される。3年生は、2週間の修学旅行が行われ、京都、奈良など古都や旧所名跡巡り、そのほか東京本社、大阪支社への訪問、住友関連会社や工場見学なども含まれた。
沿革[編集]
1958年(昭和33年)1月28日、住友赤平鉱業学校設置の件、本社に上申。2月17日、本社承認。
1958年2月17日、北海道知事に認可申請書提出。2月25日、北海道知事より設置の件認可される。
1958年2月25日、住友赤平鉱業学校創立。
1958年3月、校則が定められる
1958年4月7日、開校式。第1期生入学式。 定員30名に対して94人の応募があった
1959年(昭和34年)7月、校歌制定される(作詞・友田政富、作曲・潮田勉)
1961年(昭和36年)4月、同窓会と後援会発足
1962年(昭和37年)4月1日、この年の1学年より、従業員子弟以外の入学を許可し、定員が40名に増加される
1963年(昭和38年)9月22日 - 24日、創立5周年記念式典
1963年12月18日、学校名変更認可申請を北海道知事に提出。12月23日、北海道知事より学校名称変更が認可される
1964年(昭和39年)4月1日、住友赤平高等鉱業学校に名称が変更される。北海道札幌南高等学校の通信制課程と併修することにより、高等学校普通科の卒業資格も得られるようになった。
1965年(昭和40年)4月、部活動に吹奏楽部が新設され、既存のラグビー部と柔道部に加えて三つのクラブが揃う。生徒はいずれかの部に所属しなければならない決まりがあった
1967年(昭和42年)4月、1学年80名・2学級編成に改められる。この年、北海道有朋高等学校が札幌南高等学校から分離・独立する。住友高等鉱業学校生徒は、同時に北海道有朋高等学校の生徒としても籍を置いた。
1967年10月2日、親友会館にほど近い国道38号線沿いに新校舎第一期工事が落成、移転する。二階建ての新しい校舎には、住高生専用の浴場が設置されていた。その他、総合体育館が隣接しているため柔道その他体育の授業がスムーズに行うことができた。特にラグビーは、既存の本格的なラグビー場が備わっていたため活溌に行われ、ラグビー部は、「北海道に住高あり」、とまで言われた強豪に育った。体育科教師・太田架の証言が残されている:「関係者の努力により念願のNHK杯全道大会に数年連続出場し、全道でも屈指の好チームに挙げられて注目をあびた」[1]
1968年(昭和43年)1月16日、文部省から技能教育指定校として認定を受ける。
1968年8月30日、第二期校舎増築工事が落成
1970年(昭和45年)5月、高体連加盟。この頃、バスケット部が新設され、野球部が復活する
1971年(昭和46年)4月、住友奔別高等鉱業学校、住友赤平高等鉱業学校に併合される。この頃には入学志願者が激減しており、1972年の入学者は15人だった
1973年(昭和48年)、生徒募集を停止する
1975年(昭和50年)2月、15期生の卒業をもって休校となり、住友赤平高等鉱業学校の17年の歴史は幕を閉じる。住友赤平高等鉱業学校記念誌『17年のあゆみ』が発行される
資料[編集]
歴代の学校長[編集]
- 住友赤平高等鉱業学校
- 初代学校長 岡本 義雄
- 二代学校長 上村 敏夫
- 三代学校長 野口 健営
- 四代学校長 今川 彦二
- 五代学校長 広沢 義久
- 住友奔別高等鉱業学校
- 初代学校長 大島 栄次郎
- 二代学校長 戸須 一二三
- 三代学校長 岡本 義雄
- 四代学校長 川副 官次
- 五代学校長 富永 春樹
- 六代学校長 野口 健営
- 七代学校長 吉田 千秋
入学試験[編集]
- 昭和40年度の住友赤平高等鉱業学校入学案内パンフレットより以下抜粋。
- 応募資格 : 原則として昭和40年3月、中学校卒業見込みの男子。
- 出願手続: 当校所定の入学願書に必要事項を記入し、名刺判の写真を貼って出身中学校長 の推薦を経て当学校長宛てに、受験料100円を添えて提出。
- 試験科目 : 1日目 身体検査 於 住友赤平総合病院
- 2日目 筆記試験 国語、社会、数学、作文 於 当校
- 3日目 面接試験 於 住友赤平砿業所事務所会議室。
カリキュラム[編集]
1時限50分の授業を週42時間行う(年間40週)。修業年限は3年
- 一般教科
- 現代国語Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ、古典乙Ⅰ、漢文
- 社会、日本史、世界史B、地理B
- 数学Ⅰ、ⅡA、ⅡB、Ⅲ
- 物理A、化学A、生物、地学
- 保健、一般体育、ラグビー、柔道
- 書道Ⅰ、Ⅱ、書道3年、音楽
- 英語AⅠ、BⅠ、AⅡ、BⅡ、Ⅲ
- 特別教育活動・・・ホームルーム他
- 専門教科
- 採鉱学、地質学、鉱山保安、保安規則、通気、火薬
- 一般機械、坑内機械
- 一般電気
- 測量
- 基礎製図、機械製図
- 実習(坑内外見学、及び調査、坑内作業実習。実習ノートを定期的に提出)
- 特別教科
- 情操教育、教養、一般社会知識、特別活動、救急法講習会
生徒活動[編集]
- 部活動(ラグビー部、柔道部、吹奏楽部)
- 「夏季練成会」(小樽市塩谷で6日にわたる合宿。調理、遠泳などが行われる)
- 「冬季練成会」(イルムケップ山麓で山スキーと三平汁昼食会など)
- 消防、事業所周りのラッセル等
- 全校生徒11㎞マラソン大会
文化活動[編集]
- 図書、美化運動、応援団、学校祭(生徒によるエレキギターのバンド演奏、滝川商業高等学校女子生徒とのフォークダンスなども行われた)、予餞会など。その他の行事として新入生歓迎会、遠足会、山神祭、火薬工場などの見学旅行。
特典[編集]
- 各学年とも月額3000円の奨学金が支給され、後に増額された
- 1学年 月額8,000円
- 2学年 月額9,000円
- 3学年 月額10,000円
- 入学金及び授業料は、徴収しない。
- 制服と制帽を入学時に現物支給する。
- 通学交通費、寄舎費用の一部を補助する。
- 適性に応じて電気、機械要員の教育が受けられる。
- 一定期間を経て選抜により職員に登用される。但し、基本的に各鉱業所で三年間の勤務が義務付けられた。
進路[編集]
主な就職先として住友石炭鉱業株式会社住友赤平砿業所、住石扶桑工業株式会社、株式会社ニッショウ、東武建設株式会社鉄道部、住商石油株式会社、住金化工株式会社、公務員としては消防職員、自衛官、警察官、国鉄職員等が挙げられる。
なお、11期生以降進学する生徒も増えている。
技能連携協力校[編集]
住友赤平鉱業学校・住友赤平高等鉱業学校:北海道有朋高等学校
住友奔別高等鉱業学校:赤平西高等学校、芦別高等学校、芦別工業高等学校、札幌南高等学校
その他[編集]
住友赤平高等鉱業学校を代表するOBに9期卒業の三上秀雄がいる。
北海道古宇郡泊村に生まれる。父は茅沼炭鉱に勤務するが、昭和39年、閉山する[2]。
中学校2年のとき家族と共に赤平市に移る[3]。住友赤平炭鉱にその象徴的施設「立坑やぐら」(巨大エレベーター施設)ができた直後のことである[2]。滑車でロープを巻き上げ、箱形のケージを地下約600メートルまで運び、石炭を積んだ炭車(トロッコ)を地上に引き上げる。秒速12メートルは、東京スカイツリーのエレベーターより速い。当時の最新技術をつぎ込んで昭和38年に完成した。6軒長屋の炭鉱住宅が535棟も立ち並ぶ居住区には、発電所や浄水場、病院などのインフラが整備されており、映画館、野球場、ラグビー場などの娯楽施設も充実していた。三上は朝日新聞の取材に対し、「大都会に来たようだった」と感想を述べる[3]。
昭和41年、住友赤平高等鉱業学校入学。在学中はラグビーに明け暮れる。「学校では授業でもラグビーがあった。部活でまたラグビー。社会人のラグビー大会に出てて、強くて結構有名だった」[2]
18歳のとき住友石炭鉱業株式会社住友赤平砿業所に入社。「採炭」に配属される[2]。大卒初任給が5万円前後の時代、月給20万円を超えることもあった[3]。
23歳のときに救護隊(炭鉱で独自に編成している救急隊)への任命を受ける。閉山までの20年間、救護隊員を続ける。
26歳のとき試験に合格し、職員となる[2]。
平成6年(1994)、閉山。退職。その後は、地元の建設会社などをへて、2001年から市の嘱託職員として市税や健康保険料の徴収に従事[3]。
現在、「赤平コミュニティガイドクラブ TANtan」2代目代表。また、赤平市炭鉱遺産ガイダンス施設で訪れた人への解説や案内を行っている[2]。
映画[編集]
昭和30年頃の住友赤平全景を活写した映画に、『生きとし生けるもの』がある。山本有三の同名小説を日活が映画化したもので、監督・西川克己、出演・三國連太郎、北原三枝、笠智衆、山村聰ほか。赤平市には、かつては住友の他にも北炭(北海道炭礦汽船)赤間炭鉱や昭和鉱業豊里炭砿、茂尻炭鉱などが存在し、街は活気に溢れていた。
また、1999年東映が制作した『鉄道員ぽっぽや』の主なロケ地は、根室本線の幾寅駅(幌舞)を中心とした南富良野であるが、炭鉱街の象徴として映し出された立坑櫓は、赤平で撮影された。
脚注[編集]
- 注
- 出典
- ↑ 住友赤平高等鉱業学校 1975.
- ↑ a b c d e f “赤平のまちで炭鉱遺産を守り伝える!~シリーズ2”. kurashigoto.hokkaido.jp. 株式会社北海道アルバイト情報社. 2020年4月2日確認。
- ↑ a b c d 長崎潤一郎 (2018年7月29日). “特集「北海道150年」エネルギー”. 朝日新聞DIGITAL. 株式会社朝日新聞社. 2020年4月2日確認。
参考文献[編集]
- 住友赤平高等鉱業学校8期卒業Yの実習ノート
- 昭和40年度案内(山本伸生入学願書提出時)
- 昭和42年度8期生 修学旅行ガイド紙(奔別校と合同)
- 住友赤平高等鉱業学校 第八期生卒業アルバム(1968)
- 三上秀雄からの聞き書き
- 高嶋雅明「作道洋太郎編「日本財閥経営史--住友財閥」」、『社会経済史学』第49巻第1号、社会経済史学会、1983年、 87-90頁。
- 『住友財閥 (日本財閥経営史)』 作道洋太郎、日本経済新聞社、1982年。ISBN 4532073731。
- 作道洋太郎 『住友財閥史』 ニュートンプレス〈教育社歴史新書〉、1979年。ISBN 4315402532。
- 畠山秀樹 『住友財閥成立史の研究』 同文舘出版、1996年。
- 久保田晃 『三井 企業グループの動態 第3』 中央公論社〈中公新書〉、1966年。
- 『住友赤平開坑三十年』 住友赤平開坑三十年史編纂委員会、住友石炭鉱業株式会社赤平鉱業所、1968年。
- 住友石炭鉱業(株)社史編纂委員会 『わが社のあゆみ』 住友石炭鉱業、1990年。
- 野中武義「住友石炭鉱業株式会社奔別鉱業所立坑櫓について」、『採鉱と保安 / 工業技術院公害資源研究所 編』第5巻第10号、白亜書房、1959年。
- 『17年のあゆみ』 17年のあゆみ編集委員会、住友赤平高等鉱業学校、1975年。