トーク:住友赤平高等鉱業学校

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「住友赤平高等鉱業学校」8期生Yのノートより[編集]

「住友赤平高等鉱業学校」8期生Yのノートより。 「住友赤平高等鉱業学校」は、昭和33年2月、住友石炭鉱業株式会社の中堅技術員を養成することを目的として北海道赤平市に創立されたものです。創立当初は、「住友赤平鉱業学校」として昭和33年4月開校。定員30名に対して3倍の競争率だった。職員登用の最短コースに位置していたからでもある。 昭和39年4月1日「住友赤平高等鉱業学校」に名称を変更し札幌南高等学校通信制課程を導入。 昭和40年4月、部活に吹奏楽部が新設され、従来のラグビー部、柔道部合わせて三つのクラブが出来る。 住高生徒は、必ずいずれかの部に入部しなければならない決まりがあった。 昭和42年4月学年2学級として定員80名、この頃「北海道有朋高等学校」が創立されて札幌南高等学校より移籍し、「住友赤平高等鉱業学校」生徒は、同時に北海道有朋高等学校の生徒として籍を置くことになった。 昭和42年10月2日、親友会館にほど近い国道38号線沿いに新校舎第一期工事落成移転する。 住高生専用の浴場が校内に設けてあるのが特徴。 昭和43年1月16日技能教育指定校として文部省の認定を受け、有朋高等学校に採鉱科が設けられ単位取得がこれまで以上に楽になった。 昭和43年8月30日校舎第二期増築工事落成。 昭和45年5月高体連加盟。 昭和46年4月1日「住友奔別高等鉱業学校」が「住友赤平高等鉱業学校」に併合される。 昭和48年生徒募集を停止する。 昭和50年2月15期生の卒業をもって休校となり、のちに廃校となる。

昭和40年8期の山本伸生は、1年生の前期、柔道部に籍を置いたがその後、ブラスバンドに移籍しクラリネットを担当した。

昭和43年3月住高を卒業して住友石炭鉱業株式会社住友赤平砿業所の二斜坑配属となる。 昭和43年3月社内研修が行われて、九州大学工学部採鉱科、秋田大学などの新卒採用者と合同で坑内実習が数日間実施された。  その後、二斜坑のピット長に数名の卒業生を引率して、係長室へ挨拶に伺う。その際に、山本係長は「僕は九州大学工学部出身で九州とは縁が深いので・・・それに、君も同じ山本だしね」と、笑顔で応対して下さったことが印象に残っています。 この人の元でなら頑張るぞと、思ったものです。

資料[編集]

昭和40年4月から昭和43年3月までの「住友赤平高等鉱業学校」教職員。
学校長:上村 敏夫
副校長:今川 彦二(のち4代目学校長)
校長代理兼教頭:小山 弘
校長代理:熊谷 正雄、広沢 義久(のち5代目学校長)、矢野 景三、野村 新平
前副校長:原田 稔
前校長代理:平田□
前教頭:木下□
専任教員: 主事・宮田 強哉、主任・古村 義信。教師兼誠心寮舎監・中谷 久雄。教師・太田 架、佐久間 哲男、添田 佐佳□、藤谷□、佐々木□、鈴木□、池田□、和田□、板山 武生(のちに教頭)、及川 直蔵(主事を長期渡って務める)、門馬□、 山辺□、 竹野□、 津田□、 相内□
事務長:安藤 清助
書記:中山□
協力校・赤平西高等学校、芦別高等学校、芦別工業高等学校の教諭・浪花 正雄、野村□、高山 温夫、近藤□、池田□、井田□、菅原□、矢野□、三浦 忠。実習科指導員・藤井 東一郎、戸来□、網野□、寺崎□、片桐□、中村(初)、中村(三)、安楽□、畑中□、樋口□ --100円ライター (トーク) 2020-03-20T10:33:46 (JST)‎

住友赤平高等鉱業学校設立秘話[編集]

戦後のドイツでは、男性の人手不足もあり、昭和32年1月から日本の優秀な若手鉱員を西ドイツの炭鉱へ研修目的で派遣していたことがある。その時、連絡員として住友から角替卓二が一年間担当した。西ドイツのルール炭田で宿舎として使われたのは、鉱業学校の寮であった。ドイツの鉱業学校を手本にして、北海道に是非、創りたいと、いうことになって、主に赤平砿務課長代理で、のちに参与の角替卓二、初代教頭の山口泰助、初代副校長の原田稔、初代学校長の岡本義雄等の尽力によって昭和33年4月赤平と奔別に住友鉱業学校が開校されたのであった。 山本伸生 --100円ライター (トーク) 2020-03-24T11:12:05‎ (JST)

山本伸生の想い出[編集]

昭和35年10月西ドイツの炭鉱に派遣された中に赤平砿出身の山本勝栄がいる。第3陣の研修期間が終わった昭和38年10月、青い目の妻Heidi(ハイディ)を伴って帰国した際、住友赤平では、ドイツから花嫁が来たと、街を挙げて歓迎ムード一色となり、住む部屋を洋式化したり、水洗トイレを完備するなど大わらわだった。その後、昭和41年初秋に住友赤平高等鉱業学校を山本夫妻が表敬訪問されたことがあった。全校生徒は、校庭に勢ぞろいして、ブラスバンドの演奏で出迎えたことを昨日のことのように覚えている。 --100円ライター (トーク) 2020-03-24T11:12:05‎ (JST)

住友赤平高等鉱業学校の研究[編集]

初代学校長の岡本義雄は、住友唐津砿業所所長を昭和23年10月から昭和25年3月まで勤めた。

教頭・校長代理を勤めた平田豊(昭和37年12月から昭和41年9月まで)は、住友唐津砿業所閉山の昭和32年2月時点まで、上級職員を務めた。

採鉱学を教えていた高原稔(昭和35年10月から昭和36年3月まで)は、住友唐津砿業所で昭和32年2月まで保安課長を務めたひと。   昭和29年6月から昭和32年2月の閉山まで唐津砿業所所長であった戸須一二三は、二代目住友奔別高等鉱業学校の学校長に就任した(昭和34年4月から昭和36年1月まで)。

昭和35年住友潜龍炭礦長の川副官次は、炭礦長代理兼労働課長の吉田千秋と二人で潜龍砿閉山の後、第二会社を立ち上げた。軌道に乗せた後、昭和36年10月から住友奔別高等鉱業学校第4代目学校長に就任した(昭和39年8月まで)。その後、吉田千秋は、第7代住友奔別高等鉱業学校学校長に就任して住友奔別砿業所閉山まで務めた(昭和43年5月から昭和46年3月まで)。吉田千秋は、住友唐津砿業所では、労働課長を務め、唐津、潜龍、奔別と、3回も閉山の憂き目にあった悲運の人でもあった。 山本伸生 --100円ライター (トーク) 2020-03-24T11:12:05‎ (JST)