井上幻庵因碩

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井上幻庵因碩(いのうえ げんなんいんせき、寛政10年(1798年) - 安政6年(1859年))は、江戸時代後期の囲碁棋士平成28年(2016年)、囲碁殿堂入り。

経歴[編集]

出生地、実名は不明。姓は橋本とされる。1803年享和3年)、6歳で井上家の服部因淑に入門した。1809年文化6年)、12歳で初段となり、師の因淑の元の名である因徹を名乗る。翌年服部家の養子となって服部立徹と改名した。1819年文政2年)に井上家跡目として井上安節を名乗る。同年五段で、御城碁に初出仕し、本因坊元丈に先二の二子局で1目勝ちした。文政7年(1824年)に10世井上因砂因碩が隠居して家督を継ぎ、11世井上因碩となり、6段昇段。1827年(文政10年)、林元美とともに、上手に昇段。1828年(文政11年)、8段準名人となる。

1835年天保6年)、7月、松平家の碁会。1839年(天保10年)12月、42歳で12月、名人願書を幕府に提出した。1840年(天保11年)、本因坊秀和との四番争碁を打つ。第1局は打ち掛け7回の末に秀和先番4目勝ちとなり、途中2度下血した因碩は碁所願いを取り下げた。

1846年弘化3年)7月から8月にかけて大坂にて本因坊秀策と対局した。1847年(弘化4年)、島原を訪問した。1848年嘉永元年)に隠居して幻庵を号し、秀徹が12世井上因碩となる。しかし秀徹は1850年(嘉永3年)に門人斬殺の事件を起こして退隠、後継者を予定していた服部正徹が旅行中であったため、林家門人の松本錦四郎に家督を継がせて13世井上因碩(井上松本因碩)とした。

1859年(安政6年)に没。62歳没。

棋風[編集]

吐血の局[編集]

1835年(天保6年)に浜田藩の家老で安井家門人(二段)でもあった岡田頼母が老中松平周防守に碁会を勧め、松平宅にて碁所で御止碁となっていた丈和も含めた手合を組んだ。因碩は丈和を名人位から引き摺り下ろそうと、弟子の赤星因徹を丈和に挑ませた。もしこの対局で赤星が勝てば、丈和に名人の資格無しとして公儀に訴え出る算段であった。赤星はいったんは優勢に持ち込むが、丈和は「丈和の三妙手」を放ち、赤星を下した。この対局中赤星は血を吐き、その後26歳の若さで死亡した。ここからこの一局を「吐血の局」と呼んでいる。

参考文献[編集]