九鬼嘉隆の墓

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

九鬼嘉隆の墓(くきよしたかのはか)あるいは九鬼嘉隆の首塚・胴塚(くきよしたかのくびづか・どうづか)とは、三重県鳥羽市答志町和具地区に存在する九鬼嘉隆である。

概要[編集]

答志島東部の築上の山林の内部にある墓で、五輪石塔である。江戸時代前期の寛文年間(1661年1673年)に孫の九鬼隆季が再建したといわれている。この石塔には「前隅州大守泰宗常安大居士」と刻まれており、この辺り一帯が三重県の史跡に指定されている。なお、これは胴塚とされ、その南側およそ200メートルの築上山上に首を埋めたとされる首塚もある。

九鬼嘉隆は織田信長に仕えて当時最強と言われた毛利水軍鉄甲船で破った水軍の武将。関ヶ原の戦いでは西軍に属して東軍に属した息子の九鬼守隆と交戦し、敗れて答志島に逃れて遂に自殺したといわれる。

アクセス[編集]

  • 鳥羽マリンターミナルから市営定期船で20分、和具港から徒歩で15分(首塚)、和具港から徒歩で15分(胴塚)。