丸山豊揚

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Baseball Pitcher.jpg 丸山豊揚 Baseball Batter.jpg
基本情報
国籍日本国旗.png日本
生年月日1973年10月12日
没年月日2002年11月19日(満29歳没)
身長
体重
174 cm
72 kg
選手情報
投球・打席右投両打
ポジション遊撃手外野手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

丸山豊揚(まるやま とよあき、1973年10月12日 - 2002年11月19日)は、日本社会人野球選手。

存命中に主将やベストナインを複数回受賞するなどの活躍を見せたが、2002年の練習試合中に倒れ、急逝した。

経歴[編集]

久留米工業大学附属高校(現:祐誠高等学校)時代は、甲子園出場に縁がなく、最終学年時も5回戦で九州国際大学附属高校に敗れた[1]

卒業後は日産自動車九州に入社し、2年目からショートの定位置を獲得すると、1993年に新人王を獲得[2]1994年には藤井将雄(当時:藤井政夫)を擁して都市対抗野球大会に出場し、初出場ながらベスト8進出に貢献した[3]。自身も福岡県ベストナインに選出[2]

その後も都市対抗野球や社会人野球日本選手権出場の原動力となり、自身も4度の福岡県ベストナインに選ばれ、特に2001年には九州ベストナイン、第28回日本選手権九州地区予選首位打者を獲得するなど九州を代表する選手となった[2]

2002年11月13日に行われたJR九州との練習試合で1番ライトで出場した丸山は第一打席でライト前ヒットを打ったが、直後に痙攣を起こし救急車に搬送された[2]。チームメイトも丸山の体調を気遣って見舞いに行っていたが、6日後の11月19日に危篤状態に陥り、意識を取り戻すことなく痙攣重積発作で死去した[4]。29歳没。見舞いに来ていた最後の1人を見送るように亡くなったとも言われている[4]

1994年までチームメイトであった藤井も丸山が亡くなる2年前の2000年10月13日に末期肺癌のため、31歳の若さで死去した[5]

日産スターグラウンドに丸山の慰霊碑が建てられている[2]

脚注[編集]