下津井電鉄モハ100形電車

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

下津井電鉄モハ100形電車(しもついでんてつモハ100がたでんしゃ)は、下津井電鉄線にかつて在籍した下津井電鉄の完全新造の鉄道車両の1形式。本項では、クハ20形およびクハ23の改造車であるモハ1000形についても解説する。なお、気動車からの改造電車がモハ100形やクハ20形を名乗ったこともあるが、こちらは下津井鉄道カハ50形気動車を参照されたい。

概要[編集]

1949年に下津井電鉄線は電化され、当初はカハ50形の電車化が行われたが、1951年からは新造電車の投入が始まり、1961年までに7両が新造された。

これらについては路線縮小後も一部が残り、改造を受けながら全線廃止まで使用され続けたものもあった。

形態別解説[編集]

モハ101・クハ21[編集]

1951年製造。当時日立製作所笠戸事業所ではドッジ・ラインによる緊縮財政で国鉄向けの仕事がなくなっていたため、地方私鉄への売り込みをしており、このセールス活動が下津井電鉄にも回ってきたので製造された。吊り掛け駆動方式ではあるものの、電動カム軸式の制御装置を備えるという当時最新鋭の設計を備えたが、逆にこれが運用上、および整備上の仇となり、最後まで限定運用がなされ続けた。

当初モハ101は両運転台であったが1963年には片運転台となり、さらにクハ21にも貫通路設置がなされ、2両固定編成となった。

1972年の路線縮小により余剰廃車。

モハ102・クハ22[編集]

1954年製造。車体長は13mに延長され、制御装置も101Fの反省からHL式に戻され、在来の電車との混用が図られた。結果としてラッシュ時にはその収容力を遺憾なく発揮している。

こちらも当初モハ102は両運転台であったが後に片運転台となり、さらにクハ22に貫通路設置がなされ、更には栗原電鉄からの譲受車であるサハ3を組み込み3両固定編成となった。

1972年の路線縮小後は中間車を同じく栗原電鉄からの譲受車であるサハ2に変更し、引き続き3両固定編成が組まれたが、乗降扉の自動化やワンマン化は最後までなされず、老朽化も進み、末期は予備車となり、1988年に2000系に代替され、まずサハ2が廃車になって2両化された。そして当該2両も廃止直前の1990年に廃車解体に至っている。

クハ23→モハ1001[編集]

上記のクハ22と同じ形態をする制御車で、1954年製造。マスコンはHL方式とされ、従来車と混用されたが、固定編成化はなされなかった。

1972年の路線縮小後はモハ110の予備車として残ったが、1973年にはカハ52の機器等を流用し、クハ23自体が両運転台・ワンマン対応の制御電動車モハ1001に魔改造され、モハ110を1977年に廃車に追いやった。1984年には同社の廃車バスから座席を流用して海側をクロスシートに改造された。

しかし、電装品に関しては老朽化が深刻に進み、部品も枯渇していたことから最末期は下記のモハ103-クハ24の予備車となっていた。もっとも、1991年の全線廃止まで使用され、廃車後は旧下津井駅構内にて静態保存されている。

また、晩年は車体に落書きができるようになっており、「赤いクレパス号」の愛称で親しまれていたが、1991年の廃止後に落書きは消されている。

モハ103・クハ24[編集]

1961年製造。制御方式こそHL式であったが、当初から2両固定編成を組み、前照灯も2灯化されるなど、より近代的な見た目となった。

1972年の路線縮小後は朝夕ラッシュ時の主力となり、1973年にはワンマン化改造がなされた。また、車体色は当初下津井電鉄標準色をまとい、後に下電バスのような白地に赤帯に変更され、最末期は「フジカラー電車」として緑を基調とした富士フイルムの広告電車になっていた。

1991年の全線廃止まで使用され、廃車後は2両とも旧下津井駅構内にて静態保存されていたが、2017年からはクラウドファンディングによりクハ24のみが鷲羽山下電ホテルにて移設保存されている。モハ103は引き続き下津井駅構内にて静態保存されている。

関連項目[編集]