レフ・オボーリン

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レフ・ニコラエヴィチ・オボーリンロシア語: Лев Николаевич Оборин, ラテン文字転写例:Lev Nikolayevich Oborin, 1907年9月11日[1](ユリウス暦では8月29日)[2] - 1974年1月5日[3]は、ロシア出身のピアノ奏者、作曲家[4][5]

モスクワ出身[6]。父ニコライは鉄道技師で、母ニーナはモスクワ大学医学部の講師であったが、両親は音楽愛好家であった。父の仕事の都合で、幼少期はホメリ、ビテプスク、オルシャ、ミンスクなどを転々としたが、1914年にモスクワに定住[7]。1916年からグネーシン音楽学校に入学[8][9]してエレーナ・グネーシナにピアノ、アレクサンドル・グレチャニノフに音楽理論を学ぶ。1921年から1926年までモスクワ音楽院で学び、ピアノをコンスタンチン・イグムノフ[10]、作曲をゲオルギー・コニュスゲオルギー・カトワールニコライ・ミャスコフスキーの各氏に師事[11]。1927年にフレデリック・ショパン国際ピアノ・コンクールで優勝した。一方で、1928年から母校のモスクワ音楽院でピアノ科講師を務め[12]、1935年には教授に昇進。1954年から1959年まで同音楽院のピアノ科長を務め、1965年からピアノ科長に再任されていた。ダヴィッド・オイストラフとは1935年に共演して以来親交があり、1941年にはチェロ奏者のスヴャトスラフ・クヌシェヴィツキーを加えてピアノ三重奏団を結成していた。1957年に心臓発作で倒れたがすぐに復帰。1967年に脳溢血で倒れたが、後進の指導は継続[13]した。

モスクワにて急逝。

注釈[編集]

  1. アーカイブ 2021年3月5日 - ウェイバックマシン
  2. アーカイブ 2015年4月1日 - ウェイバックマシン
  3. アーカイブ 2022年4月29日 - ウェイバックマシン
  4. アーカイブ 2021年5月8日 - ウェイバックマシン
  5. アーカイブ 2021年5月3日 - ウェイバックマシン
  6. アーカイブ 2022年3月14日 - ウェイバックマシン
  7. アーカイブ 2022年3月6日 - ウェイバックマシン
  8. Waibinger, Michael (2020). “Lev Nikolayevich Oborin”. LEGENDARY SOVIET PIANISTS IN EAST GERMANY 1953-1960 (Melo Classics) MC 1049: 5-6. ASIN B08QMSBB9L. 
  9. 1914年入学という資料もある。(アーカイブ 2022年4月29日 - ウェイバックマシン)
  10. Waibinger(2020, p. 5-6)によると、グネーシナはオボーリンにニコライ・メトネルの門弟になることを勧めていたが、メトネルが国外に亡命したため、実現しなかったという。
  11. アーカイブ 2021年12月21日 - ウェイバックマシン
  12. アーカイブ 2022年4月29日 - ウェイバックマシン
  13. 谷戸, 基岩 (11 1997). “レフ・オボーリン 高貴さと誠実さで聴き手の心を捉える”. ピアニスト名盤500 (音楽之友社): 207. ISBN 9784276960435.