ダヴィッド・オイストラフ
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ダヴィート・フョードロヴィチ・オイストラフ(英:David Fiodorovich Oistrakh、1908年9月30日 - 1974年10月24日)はソビエト連邦のバイオリニストである。20世紀を代表する世界最高のバイオリニストのひとりで、日本でも絶大な人気がある。演奏の安定感、艶やかで美しい音色、切れ味鋭い音色、翳りのあるメランコリーな音色などを変幻自在に出せ、自然で変化のあるフレージングなど完璧な演奏と言われる。
経歴[編集]
- 1908年9月30日、ウクライナのオデッサでユダヤ人の家庭に生まれる。
- 1913年、5歳よりピョートル・ストリャルスキーにバイオリンとビオラを学ぶ。ストリャルスキーのもとで、後に詩人になるヨシフ・ブロツキーやナタン・ミルシテインと友人となる。
- 1914年、6歳でデビューコンサートを開催する。
- 1923年、オデッサ音楽院(現オデッサ国立音楽院)に15歳で入学する。和声とポリフォニーをニコライ・ヴィリンスキーに学ぶ[1]。
- 1926年、オデッサ音楽院を卒業する。卒業コンサートで、バッハのシャコンヌ、ルビンシュタインのビオラソナタ、タルティーニの悪魔のトリル、セルゲイ・プロコフィエフの「ヴァイオリン協奏曲 第1番 ニ長調」作品19を演奏した。
- 1927年、モスクワに移動し、そこでピアニストで未来の妻のタマラ・ロタレーバ (1906–1976).に出会う。
- 1927年、ウクライナのキエフで作曲者自身の指揮で、グラズノフ ヴァイオリン協奏曲を演奏する。
- 1928年、レニングラードでニコライ・マルコ指揮、サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団との共演によるチャイコフスキーのバイオリン協奏曲の演奏に招かれた。
- 1934年、モスクワ音楽院の教師の地位を得た。
- 1939年、モスクワ音楽院の教授となる。
- 1942年、スターリン賞を受賞。
- 1964年から心臓発作に悩まされる。
- 1974年、アムステルダムコンセルトヘボウ管弦楽団(現ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団)でブラームスを指揮した後、心臓発作により死亡[2]。66歳。遺体はモスクワに送られノヴォデヴィチ墓地に埋葬された。
受賞[編集]
- 1935年、第2回全ソビエトコンクールで優勝。同年、ヴィエニアフスキ国際ヴァイオリン・コンクールでは、15歳のジネット・ヌヴーに敗れ、第2位となる。
- 1位 ジネット・ヌヴー(フランス) (Ginette Neveu) – France
- 2位 ダヴィッド・オイストラフ(ソ連) (David Oistrakh) – USSR
- 3位 ヘンリ・テミアンカ](英国) (Henri Temianka) – Great Britain
- 4位 ボリス・ゴールドシュタイン(ソ連) (Boris Goldstein) – USSR
- 5位 リエルコ・スピラー(ユーゴスラビア) (Ljerko Spiller) – Yugoslavia
- 1937年、ブリュッセルのウジェーヌ・イザイ・コンクール(現:エリザベート王妃国際音楽コンクール)で優勝[3][4]。
- 第1位 ダヴィッド・オイストラフ(ソ連)
- 第2位 リカルド・オドノポソフ(オーストリア)
- 第3位 エリザベス・ギレリス(Elisabeth GUILELS) (ソ連)
- 第4位 ボリス・ゴールドシュタイン(ソ連)
- 第5位 マリナ・コゾルポヴァ Marina KOZOLUPOVA(ソ連)
- 1942年、スターリン賞を受賞。
- 1960年、レーニン賞。
使用楽器[編集]
- 1702年 コンテ・デ・フォンターナ (Conte di Fontana Stradivarius)
- 1705年 マルシック (Marsick Stradivarius)
参考文献・注釈[編集]
- ↑ Classic interview: David OistrakhGramophone、2017年6月22日
- ↑ David Oistrakh, Violinist, DiesNew York Times、1974年10月25日
- ↑ David OistrakhBritannica
- ↑ QUEEN ELISABETH COMPETITION 1937-2013