リテラシー
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リテラシーとは、語源としては「読み書きの能力」のことをいった[1]。いわゆる「メディア社会」である現代においては、情報収集力や「騙されない能力」、文章力などの発信力や「アホなデータをメディアに垂れ流して恥を掻かない能力」などを含めてリテラシーという。
概要[編集]
リテラシーとは、畢竟、個人の中の「教養」と「文化・文明・社会」の関係と不可分なものである。天文学者は地動説を知って[2]いるが、同時に「日の出」「日の入り」「日没」とかいった言葉を日常的に使っているわけで、「あれは地平線がずり上がったりずり下がったりしているだけの話であって、太陽が出たり入ったりしているわけではないっ!!」とか怒ったりはしない。天文学者どうしは天文学者の共通語で話し、数学者は数学者どうしの共通語で話し、どちらも相手との関係性における共通語を用いて理解を深めあうという点でリテラシーに配慮している[3]。
そういった意味では、リテラシーは「読み」「書き」のみにとどまらず、「聞く」「言う・話す」「見る」や立居振舞なども含められるとも考えられる。
政治家の失言なども、「リテラシーの欠如」と謂えなくもない。
日本語の乱れも参照のこと。
その他[編集]
- 「言う/云う/謂う/いう」は使い分けるとエレガンスを感じさせる。ただし、それが吉と出るか凶と出るかは運次第である。
- 「独壇場」(どくだんじょう)は、「独擅場」(どくせんじょう)が正しい。「土壇場(どたんば)」との混用であるように思う。
- 「怒鳴られる」「怒られる」「叱られる」「説かれる」「諭される」の区別ができず、「怒られた」でひとくくりにしてしまう傾向がある。
- 同様に、「こごと」は「小言」と「叱言」の区別かつかない人もいる。
- いわゆるコンビ漫才は、ボケとツッコミの応酬であり、いわゆるコントとは違って台本(脚本)だけでは第三者である観客を笑わせることはできない。
これは裁判においても同様で、「裁判官(判事)」「原告(刑事裁判では「検事」)」「被告(刑事裁判では「容疑者」または辯護士、つまり「被告代理人」)」「傍聴人」という四者関係があり、「裁判官/裁判長」(判事)は社会的なリテラシーを尊重する立場にある。