ヤズデギルド3世
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ヤズデギルド3世(Yazdegerd Ⅲ、? - 651年)は、サーサーン朝ペルシア帝国第41代、最後の君主(在位:632年 - 651年)。
生涯[編集]
第26代君主のホスロー2世の孫で[1]、父はシャフリヤール。第33代君主・ボーラーンの甥にあたる[1]。
ヤズデギルド3世は王朝の内乱を避けて隠れ住んでいたとされ、632年に潜伏先のイスタフルで即位して以降はサーサーン朝の再興を図った[1]。しかし、当時は既にイスラム勢力(正統カリフ)の勃興でメソポタミアを奪われ、宿将のロスタム・ファルロフザードを最高司令官に任命してムスリム軍と対決するが、636年にイラクで起きたカーディシーヤの戦いでサーサーン朝軍は大敗してロスタムは戦死する。これにより首都のクテシフォンはムスリム軍に包囲されて陥落した[1]。
ヤズデギルド3世はクテシフォン奪還の軍を起こすが、642年にニハーヴァンドの戦いで大敗してサーサーン朝の没落は決定的となる[1]。その後も644年にはイスラム勢力に領土を蚕食され、東方のケルマーンなどに逃亡。651年にホラーサーンのメルヴへ逃れるも、同地で総督の裏切りにあって殺害され、サーサーン朝は滅亡した[1]。
子のペーローズ3世は中国の唐に逃亡し、後にその支援を得て王朝再興を図ろうとしたが挫折している[2]。